直線上に配置

円谷英二的日本特撮映画史



新幹線大爆破
 ★★
1975年(昭50)7月5日公開/東映東京/152分/
カラー/シネマスコープ
 
製作 坂上順 脚本 小野竜之助
佐藤純弥
 監督 佐藤純弥
撮影 飯村雅彦 音楽 青山八郎  美術 中村修一郎
 特殊撮影 小西昌三
(NACフィルムエフェクト)
成田亨
(モ・ブル)
郡司製作所
出演-高倉健・山本圭・宇津井健・宇津宮雅代・千葉真一・渡辺文雄・織田あきら・郷鍈治・竜雷太・藤田弓子


日本で初めてシュノーケルカメラを採用した映画。
シュノーケルを使ったトップシーンで有名な「スターウォーズ」の2年前。

内容は題名そのままの新幹線大爆破。
犯人役の高倉健が素晴らしい。時代に取り残され落ちぶれ果てた主人公を演ずるその姿を見ていると、見る側は金を得て逃げ延びることを願わずにはいられない。

お行儀の良い東宝映画にはない、これでもかと派手な緊迫アクションを詰め込んだ、東映ならではの傑作映画。

新幹線走行の特撮シーンは、最初は小出しにして、少しずつシュノーケル新幹線に慣らしていっている。
多くの照明を焚いて、シュノーケルでありながら広角レンズで撮影したような画面を作り上げている。

ウルトラシリーズの美術監督、成田亨がクレジットされている。怪獣デザインで有名だが、この映画では造型ミニチュアを担当したのだろうか。

以下Wikiより転載

---------------------------------------------------------------------------------------------------------
企画
1974年5月、岡田茂東映社長は、天尾完次東映東京撮影所企画部長との打ち合わせで実録路線に替わる新たな素材を探し始めた。「アメリカでヒットしているものは日本でもウケるから、常にアメリカの動向を観察していなければならない」「洋画で流行っているものは、必ず邦画にもその流れが来るはずだ」「世間をアッと言わせるような作品を早急に考えろ」と、カンフー映画に触発されて製作した千葉真一主演の格闘映画『殺人拳シリーズ』が業績好調と裏付けられていたため、岡田は企画部に新たな企画を出すよう指示。「『大地震』や『タワーリング・インフェルノ』みたいなパニック映画をやってみろ!」と東映東京撮影所に社長命令を出した。
アメリカではパニック映画の人気がピークを迎えていた。

岡田社長が東京撮影所全体に本作製作の指示を出したのは、岡田宅にデモをかけ逮捕者を出すなど、同撮影所が組合運動ばかり熱心で、当たる映画を一本も作れていなかったからで、天尾完次は(鈴木則文も)それまで東映京都にいたプロデューサーだったが、1973年秋、岡田が閉鎖の構想を持っていた 東京撮影所の徹底的なテコ入れのため、同撮影所に送り込んだ刺客であった。

千葉真一主演でビル火災の消防士の活躍を描く『タワーリング・インフェルノ』と後の『バックドラフト』を合わせたような『猛煙三十六階』『燃える三十六階』などの企画も新聞報道されたが、そんな中、6人いた東京撮影所企画部のプロデューサーの一人坂上順は、黒澤明の脚本『暴走機関車』や、ロッド・サーリング脚本による1966年のアメリカのTVムービー『夜空の大空港』をヒントに「何か問題があれば必ず止まる“安全神話”を誇る新幹線が、もし止まらなくなったら?」という企画を提出した。

「『日本にしかない題材の新幹線を選び、それを乗っ取る・爆発させる』
というストーリーは日本だけでしか出来ず、外国に持っていっても遜色ないものが出来ると製作は進んでいく。当時は三菱重工爆破事件など、大企業の爆破騒ぎ(連続企業爆破事件)が相次いでいた時代で、警察関係者は神経をとがらせていた。岡田社長は「企画に柔軟性を持たせ、社会的に話題になった事件はどんどん映画化していく」という方針を打ち出し、企業爆破事件を映画にするという情報も流れ、岡田社長が三億円事件の時効を想定した映画(『実録三億円事件 時効成立』)まで製作を始め、警察当局も「東映は好ましくない映画ばかり企画する」と渋い顔をしていたといわれる。バリバリの共産党員で、本作のチーフ助監督岡本明久は「高度経済成長のシンボルとも言える新幹線を爆破するという発想には驚いた」と話し、「岡田社長は他社にない東映の良さは、時代の流れを見て何でもやる、変幻自在なところだと話していた」と述べている。佐藤は「当時の東映ってのは企画も非日常、バカバカしい大騒ぎするようなことを出していかないといけないムードでね。今でいうなら『東京オリンピック爆破』くらいのことね」などと述べている。
大川博が国鉄OBだった縁で、1960年の映画『大いなる旅路』は、機関士の半生の話で冒頭で貨物列車が転覆するというシーンに本物の車両を出し、国鉄から表彰されていた。このような実績と蜜月で、全面的な協力を期待。東映は特撮があまり得意でなく、「実写をふんだんに使い、迫力のあるパニック物を作ろう」と構想していた。

予定していたタイトルは『新幹線爆破魔を追え』であったが、岡田は「新幹線大爆破!」と変更。「半期に一本のスーパーアクション」、「実録ものの一バリエーションとして、企画の幅を広げる意味でも是非実現し成功させたい」、「従来の東映の客層にプラスアルファを狙いたい」などと張り切]、東映系の映画館主や関係者からも「これは当たる」「東映カラーを打ち破る手がかりになる」などと評判が良く、マスメディアからの反響も大きく「本作が成功すれば路線変更」という声も上がった。

監督・脚本
天尾完次と坂上順は緻密なコンストラクションという点で「東映東京撮影所では佐藤純弥しかいない」「それに粘り強いライターなら小野竜之助だろう」と二人を組ませた。
佐藤へのオファーが1974年初夏。小野へのオファーは同年の11月だった。坂上が「網走番外地シリーズ」のロケでお世話になった層雲峡温泉の「ホテル大雪」にお願いし、佐藤と小野は二人で当地に1か月以上籠り、ストーリーを練った。
佐藤は本作の2、3年前、国鉄国際部の依頼で、海外広報用に新幹線のPR映画を作った経験があった。有名な“新幹線が一定速度を下回ると爆発する”というアイデアは、坂上順の着想とされ、「飛行機は着陸したくても着陸できないというサスペンス映画があるけれど、新幹線の場合、停まりたくても停まれないというサスペンス映画はできないですか」と佐藤に伝えた。
佐藤は東京・駒込六義園近くにある、鉄道関係の専門書を多く発刊している書店の交友社に出向き「新幹線教則本」を購入。また前記のPR映画を作った際に、国鉄の広報担当者が「新幹線は地上最速の輸送機関でありながら、最も安全である。何故ならば、新幹線の安全対策は多岐に渡るが、その根本思想は、何かあったら直ちに停止するということだからだ」と言っていたのを思い出し、爆発のメカニズムのアイデアを膨らませた。
走行速度80km/hで爆発する設定を考案したのは佐藤である。元々、子供の頃からラジオ製作などが好きで、一定の周波数を検知するとスイッチが入るというメカニズムは有り得るということは知っていた。国鉄サイドからすれば、本作のアイデアがそうした盲点を突いていたことが、当初は蜜月関係だったにも関わらず、協力を嫌がった理由といわれる。佐藤は後年のインタビューで「ああいう爆弾を素人が作ることは難しいでしょうけど、あの頃は東京駅の階段の横から新幹線内部に潜入することも出来ましたし、当時は計画を実行することはそれなりに可能だったと思います。だから国鉄は映画が公開されたら、真似されることを恐れたんだと思います」
と述べている。また演出的なバネとなったのは『わらの犬』と話していた。
浜松駅での上り線への切り替えシーンのアイデアは、黒澤明脚本『暴走機関車』に佐藤がB班として参加した際、実現はしなかったが似たシークエンスがあったという。関川秀雄の兄が新幹線開発に加わっていたために話を聞いたり、静岡県浜松市の国鉄浜松工場を訪ねたりして資料を集めていた。

キャスティング
1973年、映画『ゴルゴ13』からプロデューサーとなった坂上順は、製作進行係をしていた時から俊藤浩滋や高倉健にいろいろ教えてもらっていた縁から、主役の沖田哲男役のみ、高倉と決めていた。しかし岡田茂は「もう鶴田浩二、高倉ばかりに頼るな」と言い、菅原文太を主役で押し出したいと構想していたとされ、社の方針として「菅原文太・梅宮辰夫・千葉真一でやっていく」と東映は決めていた。

坂上は高倉に脚本を見せると「こんな面白い映画なら、どんな役でもいいからぜひ参加したい、もちろん犯人役でも構わない」と言ったが、社の方針で沖田には菅原がキャスティングされ、倉持には高倉がキャスティングされる。和田誠は「これは門外不出のエピソードでしょうけど、高倉さんが『新幹線大爆破』は僕が運転手で宇津井健さんが犯人をやるというキャスティングだったんだけど、僕が犯人をやるから宇津井さんに役を替えてくれって言って役が交替したんですと聞いた」と話している。
しかし菅原は「この映画の主役は新幹線で、演技者は付け足しだ」「国鉄の協力が無くてできるわけがない」と断ってきた。

坂上は本社で「社長(岡田)が『若いのでやれ』って言ってるんだから梅宮か、小林旭にしろ」と聞かされ、岡田からも「高倉にこだわっていたら、企画が前に進まない」と念押しされた。
高橋英樹も主演候補に挙がったが、坂上は当時はまだ下っ端プロデューサーで、散々迷った挙句に失礼ながら岡田の家へ夜10時頃に電話して「どうしても健さんでやりたい」と訴えた。通常の映画作品よりキャスト・特撮の双方で予算が掛かっているため「本来のギャラを出せない」と思っていた岡田は、「高倉でやりたいならば、全体予算を詰めるのがお前の仕事だ」「通常のギャラの半分でいいなら、高倉を起用してもいい」と条件をつける。
坂上は実情を正直に高倉に話すと、高倉は岡田からのギャラ半分の提案に憤慨し、「坂上いぃ、機関車は石炭がなければ走れないぞ」と言いながらも、「この作品は役者として絶対に演りたい」という強い思いから、その無茶苦茶な申し出を承諾。「ギャラは半分でいいが、その代わり映画が当たったら成功報酬のパーセンテージが欲しい」という契約で坂上のオファーを受けた。
高倉は「この映画に関しては俳優の魅力なんかは二の次で、ストーリーの面白さがある」「大変面白い脚本で、久しぶりにのってるんです」と当時のインタビューで述べていた。

脚本の小野竜之助は、フランスで公開された内容のような凶悪犯と設定し、犯罪者側の視点は簡潔なもので、国鉄・警察側のみから描く予定だった。しかし高倉の出演により、犯人の人間像を膨らまし、「なぜ、犯行に至ったのか」という犯人側のそれぞれの背景を書き足し、シナリオを“複眼”にした。ただ、坂上はシナリオ段階から高倉主演でシナリオを書いてもらっていたと証言している。やくざ映画のヒーローでならした高倉が、ジャンパー姿の、倒産した中小企業のオヤジ役を引き受け、時代に取り残され絶望的な反撃を試みる男を演じ、同作は高倉がこれ以降に幅広い役柄をこなすきっかけとなった。

千葉真一は当初別の役だったが、坂上が何とかお願いして青木運転士を引き受けてもらった。全編ほぼ運転席に座っていた青木だが、ゴーグルを着けて客車の床を焼き切り、ヤケドをするシーンは千葉のアイデアによるものだった。高倉・千葉・宇津井健は同時アングルで出演していないが、高倉と宇津井が談笑する姿や新幹線の模型を持つスチル写真が残されており、新東宝出身の宇津井は東映初出演となった。坂上は犯人と対峙する花村警察庁捜査第一課長に丹波哲郎を配役し、『網走番外地』で高倉と対峙するイメージを描いていたが、丹波に「4日しか空かない」と言われ、鈴木瑞穂に変更。脚本では丹波と鈴木の役は1人だったが、分けたことで丹波の役は重要度が下がることとなる。
坂上はポスターを作った時、キャスト並びで丹波を中止めにして宇津井を止めにした。これに新東宝で宇津井の先輩である丹波がクレームをつけてきたため、本編のクレジットで丹波はエンディングに特別出演とロールされている。

学生運動くずれ・古賀勝には当初、原田芳雄へオファーしたが、「テロリズム的なものは嫌だ」と断られたため、山本圭がキャスティングされた。しかし本作を観た原田は「断って申し訳なかった。次は是非ご一緒に」と、『君よ憤怒の河を渉れ』(1976年)に出演した。
山本の出演で坂上はプロデューサーの宮古とく子と縁ができ、『新幹線大爆破』を宮古に褒められ「『君よ憤怒の河を渉れ』の監督に起用したいので佐藤を紹介してくれ」と頼まれた。高倉の『君よ憤怒の河を渉れ』出演も本作と同じ佐藤監督からの縁によるものだった。制作費の高騰により、俳優へ協力を頼み、通常より低めのギャラで出演してもらった。カメオ出演のうち、北大路欣也はノーギャラ。岩城滉一は映画デビュー作だったもののアップがないため、役柄を前もって確認しておかないと気付きにくい。

中学2年の封切時に松山の東映封切館で本作を観たという杉作J太郎は、「当時の東映映画は、実録ものか、空手映画か、劇画ものか、ポルノ(東映ポルノ)というプログラムだったので、それらでは見かけない宇津井健や竜雷太、山本圭ら東映とは無縁の役者が"不良性感度"100%の東映のスクリーンに登場したことに絶句した」などと話している。

この他、『小川宏ショー』に出演していたフジテレビの人気アナウンサー・露木茂にテレビの報道記者の役で、1975年5月16日に正式に出演オファーを出した。露木がよど号ハイジャック事件やあさま山荘事件のリポートで知られていたことから、テレビで刻々とニュースを伝え、犯人にも呼びかけるうってつけの配役と、露木も「断る理由は何もない」と話し、『小川宏ショー』のスタッフからも「いいお話じゃないですか」などと乗り気だったが、露木はアナウンス部ではなく、解説委員室というお堅いセクションに所属していて、同セクションの上司から「映画の内容が内容だけにどうか?」と反対され出演はならなかった。

製作費
制作費は5億3000万円。製作当時の東映東京撮影所所長・幸田清は「ふんだんに岡田社長に金を使わせてもらっているので、これが当たらなかったらオレはクビだと思う。俳優、スタッフとものりにのっており、東撮始まって以来の熱気だ」などと話していた。東映の作品において過去最大の金額と言われ、監督の佐藤純弥は2002年のトークショーで「現在の貨幣価値なら20億円くらいでないか」と述べている。プロデューサーの坂上順は2012年のインタビューで「制作費は1億5000万円、今に換算すれば10億円ぐらいになるでしょう」と述べている。1975年の小学校教師初任給は8万1104円、東京都内のもりそば、かけそば料金は230円、4ドア普通乗用車96~140万円の時代である。

撮影準備まで
国鉄に、実物の新幹線0系電車の撮影協力を交渉したところ、安全を謳い文句にしていた国鉄は、刺激的な映画のタイトルに難色を示し、「『新幹線大爆破』という映画のタイトルでは新幹線のイメージが悪くなるので、『新幹線危機一髪』というタイトルへ変えるなら撮影に協力しても良い」とタイトル変更を打診するが、岡田茂は「題名は絶対に変えんぞ!」と断固拒否。当時国鉄は、森繁久彌が「安全です国鉄は」と訴えかけるCMを放送していた。
1974年12月、国鉄が「現在、新幹線に爆弾を仕掛けたという電話は週に1本の割合でかかって来て、その度にいたずら電話かも知れないが、必ず最寄の駅に停車させて検査するような状態である。このような映画は、更に類似の犯罪を惹起する恐れがあるから製作を中止されたい」と、本作の企画に断固反対の姿勢を打ち出した。
1975年2月初めに国鉄から80%協力は得られないという線が出て、児童教育映画を作るからと称して申し入れたがこれも拒否され、同年4月にいっさいの撮影協力を断られた。1975年3月~4月の間、表立った製作はストップしたが、この間に国鉄の協力なしで撮影が可能か検討された。

撮影決行
『週刊朝日』(1975年4月18日号)に「九割がた製作中止になりそう」と報道されるが、「活動屋魂、見せてやろうじゃねえか!」と現場の士気はかえって上がった。1年以上かけた企画を潰すことはできず、ロケーション撮影が不可能となり、岡田から「隠し撮りとミニチュア撮影の合成」と指示を受けた。
製作態勢がほぼ整ったのは1975年4月半ば。A班、B班、特撮班、実写班と4班のスタッフが編成され、1975年4月29日クランクイン。特撮カメラを担当した清水政郎は「時期が時期だけに中止だろう」と思っていたため、製作決行にビックリしたという。

製作会見
撮影中の1975年5月12日、東京有楽町交通会館15階スカイラウンジにて製作発表会見が行われ、登石雋一企画製作部長、佐藤監督、高倉健、宇津井健、山本圭らが出席した。
ここから東京駅の新幹線ホームがよく見え、高倉らはそれを背に質問に答えた。高倉は「数年ぶりに見た素晴らしいシナリオだった。犯人役だといってもそんなことに抵抗はない。全部が難しい役柄だが、それだけにやりがいがある」、宇津井は「どんなにコンピューターがすぐれていようと、最後に頼れるのは人間の力。大映で『ごんたくれ』を撮ってから8年ぶりの映画で気合が入っています(実際はこの間の映画出演はある)」などと話した。国鉄が非協力だけでなく、クレームを付けているという報道が流れていたため、世間の関心も高く、報道陣からの質問はそれに集中した。東映は「警視庁、国鉄にシナリオを提出し『われわれは反社会的意図でこの映画を作るのではない』と説明したら、関係当局から『類似行為が起こらないよう注文を受けた』と回答された」と説明した。佐藤は「現実に爆弾を仕掛けたという脅迫電話が新幹線総局に月に2、30件あると聞いている。映画で多少は増えるかも知れないが全く別の問題だと思う。類似犯罪についても絶対に真似でできない仕掛けだから心配ない」などと話した。
マスメディアからはできないのではないかと思われていたため、「本当に作るのか?」という質問まで出た。他に登石より「作品は二部構成で二部の結末にはアイデアを募集。詳細は何れ新聞で発表する」との説明があった。 

特撮とロケなど
東京駅ホームの階段を、バンド仲間と昇る東郷あきら(岩城滉一)のシーンは、東映東京撮影所の中庭に東京駅の原寸大のプラットホームを建てたが、東京駅全景のカットは盗み撮り。新幹線運転司令室は、同撮影所の最大のステージにセットが組まれ、中央部に実際に使われていたものと同じCTC表示板が鎮座し、他のステージの多くも本作撮影用に占拠された。「岡田社長が京都か東京のどちらかの撮影所を潰すと言っている」という信頼性の高い情報が駆け巡ったため、東京撮影所の存続を賭け、多くのスタッフが本作製作に志願した。裏ルートで取材を行い、実物大の客車セットや模型を作り、撮影を進める。
急ピッチで撮影に入るが、実質、撮影に充てられる期間は5週間程度だった。当時のニュース映像や資料写真を参考にしたり、色々な手を使って本物そっくりのセットを作りあげた。このため、国鉄からは3年間出入り禁止となった。特撮部分に総額6000万円をかけている。

また、鉄橋の下での撮影などは『新幹線大爆破』というタイトルでの申請では門前払いを喰らうので、『大捜査網』というタイトルのシナリオを30部ほど印刷して、ロケ交渉ではそちらのシナリオを先方に渡し許可を取った。
蒸気機関車9600型の走行シーンは、東映が200万円で北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道から購入。貨物5790列車の走行シーンは、北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道で行い、国鉄ではないために撮影が可能だった。爆破シーンは、北海道炭礦汽船夕張鉄道線の一部を引き継いだ夕張市若菜の専用線で1975年6月10日に撮影された。事前に陸運局や警察署、消防署など関係当局に許可を取り、大平火薬から専門家を招き、4台のカメラで撮影した。
貨物に乗っている人たちのシーンは爆破箇所とは別の北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道で撮影。5790列車は、当時夕張線に実在し、実際に蒸気機関車が牽引していた。北海道夕張の貨物駅シーンも熊谷市の秩父鉄道広瀬川原車両基地を用いた。線路が見えるところや車両基地、古賀勝(山本圭)が線路を渡って逃げていくシーンは、西武鉄道の協力によるものだった。古賀が線路を渡って逃げるシーンは、都営地下鉄三田線の志村車両検修場構内。犯人グループのアジトがこの近辺に設定されたのは、1970年代初頭までここは小さな町工場が密集し、過激派や学生運動の闘士が多く住んでいたため。
織田あきら扮する大城浩が売血するシーンは、佐藤の学生時代の実体験で、1970年代初頭までは、貧乏な者がまだ売血で金を得ていた。刑事の前を横切る電車は、都営地下鉄6000形である。その後、西台駅1番ホーム、東口改札口まで刑事が追跡する。青木義郎扮する千田刑事が身代金入りジェラルミン7号トランクを掲げてヘリを北上し、埼玉県の寄居桜沢高校グランドに着陸したあと野上駅のツ46番という荷物はトランシーバーだった。駅前交番でこのことを聞いたシーン。設定では野上駅交番となっているが実は寄居駅前である。

ひかり109号
車両のミニチュアは1台1メートル余りあり、12両編成で12メートル。これを2セットで計24両製作。この2台で2000万円かかった。東映の「紡錘形を作らせたら日本一」といわれる美術担当者が、新幹線特有の紡錘形を再現した。新幹線などのミニチュアの実製作は、長らく映画・テレビの特撮作品で金属模型を手掛けた郡司製作所が担当した。
撮影所正門反対側の中庭260平方メートルに線路を敷いたオープンセットを建設。線路は全長50メートル、150メートル、300メートルと文献によって長さの記載が異なる。
特撮シーンは特殊技術の成田亨によるもので、新幹線のミニチュアは自走式では無く、小型のスキージャンプ台のように30度の傾斜をつけて走らせ撮影した。当時、このミニチュアが大変話題になり、宣伝部はここぞとばかりパブリシティを展開した。この新幹線と線路のミニチュアは、のちに『ウルトラマン80』でも使用されており、109号が爆破されるイメージカットは東映の特撮ドラマなどにも流用されている。爆破場面以外でも『大鉄人17』で新幹線ロボットの登場する前後編(第18話・第19話)などで流用された。
背景の都市はミニチュアではなく、ビルのモノクロ写真を引き伸ばしてパネルに貼り付け、着色したものである。これは成田の発案で、限られた予算内で撮るためのアイデアの1つだった。
この特撮のため、1日のレンタル料が100万円だった当時最新鋭のシュノーケル・カメラを借りている。シュノーケル・カメラはそれまでCMでしか使われたことがなく、同カメラを使用した映画は、本作が初めてといわれている。このカメラを約1か月使用した 2年後、同じカメラが『スター・ウォーズ』で使用されたという。これらミニチュアの新幹線と実際の新幹線を撮った映像を組み合わせ、迫力のある走行シーンを撮り上げた。

『新幹線大爆破』『東京湾炎上』と邦画のパニック映画大作が世間でも大きな話題呼んだため、1975年5月23日に東映、5月27日に東宝がバスをチャーターし、それぞれマスメディアを集めて、本社前集合から大泉、砧へ撮影見学会が行われた。道中、幸田清東映東京撮影所長から丸一年を要した製作苦心談や、ミニ新幹線が近所の子供たちの評判を呼んだため見学希望者が殺到した。丁寧に断ってはいたが、子供たちが撮影所内に侵入しミニ新幹線に悪戯しようとするため、ガードマンを付けているなどの説明があり、現場では新幹線ミニチュア(新幹線東映号)や特設レール建設の細かい説明の他、爆弾が仕掛けられたひかり号に救援車が近づく実際の撮影シーンや、ラッシュ試写も見せた。
高倉と宇津井が新幹線の模型を持つスチル写真は、この日セット撮影の合間をぬい、二人がここを見学した時に写されたもの。高倉は「パニック映画というより人間ドラマです。素晴らしい映画に参加できてうれしい」宇津井は「子どもが見に来たがって困ってるんですよ」と話した。

前述のように東京撮影所の近所の子供たちから「ミニ新幹線を見せて欲しい」と要望が殺到したため、幸田東映東京撮影所長が「子供たちの夢を叶えてあげたい」と1975年6月15日に撮影所を開放し、ミニ新幹線撮影会を催し、アマ・セミプロのカメラマン2000人が参加した。

新幹線の爆破シーンは1975年6月20日、東京撮影所の野外オープンセットで行われ、報道陣にも近距離からの撮影を許可した。リハーサルなしのぶっつけ本番とあって慎重に慎重を重ねて準備し、予定を2時間オーバーした。本番1回目は爆破が遅れ、報道陣が近寄った時、突然爆破しカメラを担いで逃げ出すハプニング。
2回目は予想外に火力が大きく、周辺に植えられていた木々に燃え移り、撮影所の消防車が出動する騒ぎになった。爆破シーンは映画では数秒であるが、ドカーン一発で2000万円がすっ飛んだ。

新幹線車内は材料の質感が本物そっくりに出ないと作品が全部絵空事になるという判断から、ベニヤ板でセットを組まず、当時実際に国鉄へ納入していた日立製作所や東芝などから実物の椅子や壁面、網棚などを発注して原寸大の車内を再現した。これに手間と時間がかかり、撮影が遅れる一因になった。後日、各会社は国鉄から怒られたという。本物そのままのセットは5年間保存され、新幹線の車内が必要なテレビドラマ『新幹線公安官』などに使われ、そのレンタル料で完全に元を取った。

司令室も内部の写真の提供を拒否されたため、美術監督が見学者を装って司令室に潜り込んだと書かれた文献もあるが、2002年のトークショー以降は佐藤が「国鉄は外国人に弱いから日本で無名の外国の俳優をドイツの鉄道関係者に仕立てて、全部盗み撮りしてきた」と話している。
映画での司令室のCTC表示板は起点である東京駅が本来は左側であるところが右側となっているが、これは映画進行上のイマジナリーラインを右から左としているための意図的な演出である。
ただし、本来の表示の左右だけを反転させて上下を反転させていないため、表示と実際の線路配置とでは左右(上り線と下り線)が逆になっており、CTC表示板でのひかり109号が停車している東京駅19番ホームの位置と実際に19番ホームを発車するひかり109号の映像の間に、矛盾が生じている。
実際の「ひかり109号」は東京9:48発の博多行きで、途中の停車駅は名古屋・京都・新大阪・新神戸・姫路・岡山から先各駅停車といういわゆる「Aひかり」と言われる列車であり、

クライマックスシーン
羽田空港でのクライマックスシーンは、最終発着の終わる夜の10時から朝の5時前まで、同空港を貸し切り撮影が行われた。搭乗ゲートでの細かいやりとりのシーンは重要な芝居を要求されるため、後日セットで撮影したが、エキストラ数百人を使った搭乗ゲート付近や滑走路、埋立地などの撮影は実際に羽田空港で夜間の7時間に全て行った。ワンシーン終えるごとに機材を移動していたのでは間に合わないので、それぞれ4班体制でライティングやテストの準備を終え、スタッフ、キャストが移動する方式である。夜間撮影のため用意された機材は膨大な数に上り、機材車や電源車だけで十数台、エキストラ数百人を乗せたロケバスと合わせ、夕暮れに羽田に向かう道に延々、何十台もの車列が続き、B班助監督だった佐伯俊道は「ああ、この撮影所も長いことないのかもしれないなァ」とその時は思ったという。
正規スタッフによる段取りは手際よく、夜明け前に撮影は完了し、朝8時に撮影所に到着した。東映東京ほぼ総出による共通体験をこなした喜びから、朝にも関わらず、所内のあちこちで酒宴が開かれた。

1975年6月24日クランクアップ。

音楽
公開当時、サントラ盤は主題曲とスキャットのシングルのみ発売された。その後、バップからライナーに作品解説も含むCDが発売された。劇中で流れた既製の楽曲のうち、沖田が爆弾の図面の入った封筒を預けた喫茶店サンプラザで流れていたのは、松平純子の「両国橋」(作詞:喜多條忠、作曲:吉田拓郎)。沖田が分け前の発送作業をしたモーテルで部屋のテレビから流れていたのは、浜田勇の「怨み唄」(作詞:佐藤純弥、作曲:野田ひさ志)。
1996年(平成8年)10月2日にバップよりJ-CINEサントラコレクションシリーズの一作としてサントラCDが発売された。なお、劇中に流れる青山八郎の音楽は、1977年(昭和52年)の東映実録ヤクザ映画『日本の仁義』に転用されている。

上映中止要請
前年の『あゝ決戦航空隊』以来2度目の岡田社長を本部長とする特別動員対策本部が設置され、岡田社長が審査委員長になり、全封切劇場で独自の宣伝を考えてもらい、封切劇場の興収ベストテンを決め、豪華賞品と賞状を送った。また「乗客の救出シーンのアイデアを一般から募集します」、「夢の超大作」などと広告を打ち、小中高校生などに標的を合わせた大宣伝キャンペーンがなされた。宣伝費は東映創立以来の最高額9500万円。
国鉄vs東映が少し前までお互いプロ野球チームを持っていたことにかけて「珍オープン戦」などと当時の週刊誌に盛んに取り上げられ、宣伝効果は相当で、僅かに試写を観た映画関係者からの評価は高く、東映関係者は「絶対にくるだろう」と信じて疑わず、コケる予想をする者はいなかった。
「爆弾を仕掛けられたひかり109号が、浜松駅を通過と同時に平均時速を84キロに落とした。残り919.4キロの博多駅まで何時間かかるか?」というクイズを出したところ、約26,000通の応募があり、数秒出演した多岐川裕美が銀座の東映本社で抽選会に臨み、「約11時間」と正解した中から当選者を選び、東京の小学6年生が1等になり、撮影に使ったミニ新幹線が贈られた。
国鉄はたぶん映画は出来ないだろうとタカをくくっていたが、東映が大掛かりなセットを組んで撮影を始め、国鉄自慢の新幹線を爆破するとあって「こりゃいかん」と驚いた。
公開直前の1975年6月23日に国鉄の山崎忠政広報部長から東映に抗議文書が送り付けられた。抗議内容は「十数年前の『天国と地獄』を観た者が、映画同様のテクニックで誘拐殺人事件を引き起こしたことがある。『新幹線大爆破』については、当初から、この設定が大きな社会不安をもたらすことを危惧して、口頭で中止を申し入れたが、再度この映画の上映計画を中止することを強く要望する」というもので、国鉄サイドとしては、下手に騒いで宣伝上手の東映に逆手に取られてはと心配して一時沈黙していたが、もう我慢ならないと判断したといわれる。国鉄や公安関係者は苦々しく感じていたという。
東映は既に5億3000万円もの制作費を投入しており、「冗談じゃない。中止などできるもんですか。国鉄サンが協力してくれないからミニチュアを作って撮影したんですから。社会不安を惹起するかどうかも充分に検討した上なんだから」などとカンカンに怒った。また本気の抗議書なら藤井松太郎国鉄総裁発東映岡田社長行きじゃないと意味がないんじゃないかと、形式上のことだろうと推察された。しかし国鉄は「東映さんには、よく考え、反省して頂きたい」と凄み、東映のポスターを全国の駅から締め出し、ミニチュアの新幹線や駅は肖像権侵害で告訴も辞さぬと脅した。

公開とその結果
正規班、B班、特撮班で目一杯カメラを回したため尺が膨大になり、編集作業に手間取り、最後の1週間は2班体制でほとんど徹夜。完成が封切の2日前までずれ込んだために、試写会も開催できなかった。マスメディアもこの奇妙な新作をどう取り上げていいのか分からずに右往左往していたといわれる。
予告編では千葉真一が茶・白の縦縞ジャケットを羽織り、新宿副都心にいる姿だった。これは1974年の映画『直撃! 地獄拳』のワンシーンの流用である。全く無関係のシーンを予告編に使ったため、千葉が新幹線・ひかり109号運転士の青木役とはとても予想できるものではなかった。志穂美悦子と多岐川裕美も全く違う役柄でワンシーンのみ登場。撮影遅延により、予告編は未撮影部分を他の作品から拝借する反則気味のコラージュが多用され、実際に観たら「全然違う」とガッカリする客も多かった。予告編のBGMには、本作の一部と、『解散式』と『仁義の墓場』の一部が使われている。

邦画では珍しいパニック系アクションの製作ということもあり業界からも注目を集め、前評判は高かった。しかし、「タイトルを理由として新聞への広告も拒否された」と佐藤純彌は述べているが、佐藤は宣伝をあまり知らないようで新聞広告は相当数あった。岡田社長は「一生懸命広告した」と述べている。
宣伝が十分に行き届くことがなかったというのは、完成が遅れて試写会も無く、映画評論家は試写会を観て、雑誌メディアに批評を掲載するため、これが無かったという意味かもしれない。

本作のみの1本立て興行ではなく、「ずうとるび」のドキュメンタリー風中編映画『ずうとるび 前進!前進!大前進!!』との2本立て興行だった。『ずうとるび-』との併映は10代の映画ファンの興行への影響力が大きくなったのを見た岡田が、この年からメインの併映は「青春路線」で行くと発表していたからである。
製作費を注ぎ込んで第一級のサスペンス映画に仕上げながら、任侠路線が色濃く残る東映のイメージもあいまって、国内興行は成功を収められなかった。内容もミスばかりする警察とは対照的に、国鉄マンの判断力も責任感のある男として描いていたため、当時全国に40万人いた国鉄職員とその家族が観てくれるのでは、と東映は期待していた。
同年に企画段階で頓挫した作品の穴埋めとして急遽製作・上映された『トラック野郎・御意見無用』の配給収入5億3000万円に対し、『新幹線大爆破』3億円と及ばなかった。都心ではまずまずの入りだったが、新幹線に縁のない北海道や東北地方(当時)の客入りは悪く、大阪などでは途中打ち切りに遭い、当時の週刊誌誌上では「1975年3月の山陽新幹線の博多開業に合わせて公開しようとした便乗企画」などと書かれたが、山陽新幹線の通る西日本地域においても「サッパリだった」という。

一方、『キネマ旬報』の読者選出ではベストワンに選ばれるなど、観た人は面白さを評価し、作品の評価そのものは非常に高かったために、マスメディアで様々な敗因の考察がなされた。東映営業部では「映画の内容がハイブローすぎてヤクザ映画とポルノが好みの東映ファンにソッポを向かれた」「題材がリアル過ぎた」などと分析。客層はいつもと違いホワイトカラーと女性客が圧倒的で、東映本来の客は来ず、頼みのオールナイト興行は閑古鳥が鳴いた。
監督の佐藤は、公開8か月後の1976年3月26日に福岡市で開催された『キネマ旬報読者選出ベスト・テン表彰式』で「題名がどぎつ過ぎたこと、東映のミニチュアに信頼が低かったこと、『タワーリング・インフェルノ』にぶつかったこと、一般にクチコミでお客が増えるのは3週目なのに、その3週目に打ち切らざるを得なかったこと、封切り4日前に完成し試写ができなかったこと」を挙げ、後年のインタビューでは「あの当時の新幹線ってやはり華やかなもので日本人は誇りを持っていたから、それを爆破しようとする映画は見たくないという気持ちになったかもしれない」と述べた。

脚本の小野竜之助は「ミニチュアを使った特撮を東映が大々的に宣伝し、トリックだとネタばらししたのがまずかった」「アイドル映画とくっつけないで、一本立てにしていたら結果は違った」などと話し、黒井和男も同様に「ミニチュアを派手に使って宣伝したポイントのズレが足を引っ張ったと思う」とのコメントを残している。『映画時報』は「正月あたりに出していれば大成功したと思う。しかし見方によれば東映でもこんな特撮を含めて映画が出来るということを天下に証明したわけで、これは東映のイメージアップに大変効果のあった映画だと思う」などと評している。
アメリカのパニック映画の国内進出を受けて立つという製作意図で、『タワーリング・インフェルノ』と同時期に封切りをぶつけ、真っ向勝負を挑んだが、『タワーリング・インフェルノ』の全国県庁所在地では全部2館以上上映、総数180館という前代未聞の拡大方式 による攻勢により、本作も含めて東宝の『動脈列島』、松竹の『おれの行く道』などの日本映画は観客を持っていかれ、『タワーリング・インフェルノ』は、それまでの『エクソシスト』27億円の2倍以上に当たる当時史上最高の興行収入を記録した(62億円)。

『新幹線大爆破』は興収10億円を目標としていたが、製作費が高かったため、国内興行では2億円の赤字を出し、「大金を投じて開発した新路線の第一弾が大脱線」などと揶揄された。公開初日に新宿東映で立ち合いをしていた坂上順プロデューサーに全国から届くのは不入り情報ばかりで、「私のプロデューサー生命も3年で終わりか」と覚悟した。岡田社長は「駄菓子屋がいい洋菓子を作って、作った本人が『これは美味しい。素晴らしい』と言って店頭に飾ったら、誰も買わなかった。一生懸命広告したけど、お客の方が駄菓子屋で洋菓子を売ってると思ってなかった」「意欲の面、作品的な面でも100点満点で、観客も新しい層を獲得したが、プラス・アルファ―だけの客しか来ず、本来の観客を逃す結果になった」「もう大作はこりごり」「もう東映ファンに嫌われる企画は出さない」「本来の東映ファンを大事にしないと駄目だ」などと、敷いたばかりの大作路線からの撤退を表明した。
本作公開の後、岡田企画だった『実録三億円事件 時効成立』の打ち合わせで、岡田宅を訪れた坂上に岡田は「『新幹線大爆破』は俺の売り方が悪かった」と謝ったという。
『映画年鑑』は「東映の『新幹線大爆破』は日本人の新幹線感覚、日本のパニック映画としては物足りないものであった。後にエリザベス女王の来日中のこれに対する関心、さらに海外での受入れ方に注目すべきこととなった。当時パニック映画を東宝と競作は己むを得ないことではあったが歓迎に値するものではなかった。広島抗争のドキュメント・アクションのマンネリ化、換言すれば新しい企画の不足で転換を計った『トラック野郎…』は成功した。その一方アクの強いアクションものは後退の気運を醸しだした。"不良性感度"から"善良性感度"への移行と、一大転換を計ったがこれは失敗し、再び"不良性感度"へ逆行となった」と評した。

1975年度キネマ旬報ベストテン第7位、読者選出第1位。1975年は和製パニック映画『新幹線大爆破』『東京湾炎上』『動脈列島』が封切られ、キネマ旬報は、他2作は惨敗、唯一『新幹線大爆破』が及第点だったと評価している。1978年4月24日に『月曜ロードショー』(TBS系)で最初のテレビ放映があり、1980年代以降、同作品のビデオレンタルやテレビ放送がされるにつれ、劇場公開に間に合わなかった若い世代が本作に熱狂し、日本でも徐々に再評価されるようになった。

鉄道ジャーナル1975年10月号による批判
本作はドキュメンタリーでも教育映画でもなく、娯楽映画、フィクションであるため、自由な発想で作っても何ら問題なく、本来正確性を追求される筋合いのものではないが、『鉄道ジャーナル』1975年10月号が、設定や鉄道の設備関係の扱いに誤りが多すぎると酷評した。5ページに渡る批判のうち、1割程度「娯楽映画としてはよく出来ているが」と評して「作品としてはなかなかの力作、製作費5億円余円はちょっとオーバーで、それにしてはチャチだが、国鉄の協力なしに作った鉄道映画としてはよくできている。スジの展開やスリル、画面には満足した人も多かったようだ。取材した人すべてが、鉄道と映画の専門家、レールファンを含めて異口同音に『なかなかよくできた面白い映画だ』と言っている。ただし、最近の日本映画としては、国鉄の協力なしに自力で作ったにしては…の条件付きではあるが。『よくできていますよ。国鉄のPR映画にしてもいいくらいレールファンにもお薦めできます』(嶋地孝麿『蒸気機関車』編集長)」などと褒めている。
しかし残り大半は同誌編集長・竹島紀元が「国鉄は協力してないから盗み撮りは法に触れる。道義上許せないこと。マネする人が出るだろうし、困ったこと」などと話し、これが編集方針となったようで、神奈川新聞が指摘するように新幹線を極端に擁護する批判記事を掲載した。
主な批判は以下の通り。

総合指令所の列車位置を表示する大型路線図の左右が逆
先行のひかり号の故障のシーンで、大型路線図内の位置表示の点滅が赤色になる機能はない
浜松駅で上りひかり20号通過直後の切替えポイントを遠隔操作で切替えるが、列車が転轍機手前9km以内に入ると「列車接近鎖錠」により遠隔操作できなくなり、通過後も9km以上離れるまでは「列車通過鎖錠」によって遠隔操作を受け付けないので、あの時点で上り線には入れず先行のひかり号に衝突してしまう
上り線を逆に走るときは、「伸縮継目を逆に走る場合の速度制限70km/h」によってブレーキが掛かり、爆発する
各駅や地点の通過時間を東京-博多間の距離を(運賃・料金計算に使用する)営業キロで計算して算出している。実キロ(実際の距離のこと)は100km以上短いので、実際におきたら1時間以上前に博多について爆発してしまっている。

世界各国
公開後の反響

岡田社長は1973年頃からカラテ映画の海外輸出を切っ掛けに「輸出映画を作って稼いでいかなければならない」と東映国際部に東映作品の海外セールスを積極的に行うよう指示を出していた。自らも諸外国を歩き回り東映作品の海外セールスに励んだ。
岡田が『新幹線大爆破』の海外での売約を成立させたのは、本作日本公開前の1975年6月12~15日にインドネシア・ジャカルタで開かれた第21回アジア映画祭で、団長として連れて行った志穂美悦子の当地での異様な人気の勢いで『新幹線大爆破』も売れた。この滞在中に岡田は『新幹線大爆破』以外に『けんか空手 極真拳』などを売った。
国内公開終了後の秋にアメリカのジャーナリストを集めて試写を行うと高い評判を呼び、「通俗娯楽映画として水準を抜いたできばえ」「久しぶりの日本映画」などの評価を受けた。特にアメリカの業界誌『バラエティ』で高く評価されたこと、日本の新幹線が世界的に有名なことから、世界各国から注文が入り、1975年9月初めの時点で15万ドル以上の輸出契約が結ばれた。

1975年10月のミラノ国際見本市(MIFED)「日本映画見本市」に出品すると、各国から更に買い付けのオーダーが入ってきた。これに気を良くした岡田社長は「新幹線大爆破応援団長」として、世界の映画祭に直接乗り込みアピール。香港の日本映画見本市や第4回テヘラン映画祭(1975年11月26日~12月7日)、第4回タシケント国際映画祭(1976年5月19日~5月29日)、第22回アジア映画祭(韓国釜山、1976年6月1日~17日)[ マニラ日本映画見本市(映画祭)(フィリピンケソン、1977年3月21日~24日)など海外市場に積極的に売り込みを図った。日本映画はそれまで海外でいくつも賞を獲ったが、商売上は0だった。

また東映作品は1960年代まで動画は売れていたが、劇映画はほとんど売れていなかった。1975年11月~12月のテヘラン映画祭では、コンベンションとは別に各国バイヤーを集めたフィルム・マーケットがあり、世界各国150本以上の長編の試写に火の出る取り引きが行われ、中でも『新幹線大爆破』は各国バイヤー人気が集中し、地元イランや南アフリカなどへの輸出が決まった。上映ではチャードルを被ったイランの中年女性たちが「日本の国に本当に時速210キロもスピードが出る電車が走っているのか?」と半信半疑で観ていたという。
上映で舞台挨拶に立った坂上と小野は「外国部で商売用に30分ぐらい短くしたのが気に入らない。とても観ていられない」と話していたが、ドイツのバイヤーは「まだ長い。あと30分短くする」と言っていたという。モスクワ映画祭とタシケント映画祭は当時は一年ごとに交互に行われ、東欧圏の国が全て参加するカンヌやミラノに匹敵する大きな映画市があり、岡田は毎年これに参加し東映作品を売った。1976年2月にイタリア・ローマで開催された日本映画見本市では、代表団団長特権を利用し、オープニング上映を『同胞』から『新幹線大爆破』に変更した。

アラブ諸国では空手映画がヒットした実績があり、オイルダラーを期待した。東映は既に千葉真一主演の格闘アクション映画やアニメ作品をアメリカやアジア市場に売り込み成功を収めていたが、本作の出品は取引の少なかったヨーロッパ、中東、ソ連やメキシコから注文が入った。1974年8月に岡田が訪ソした際、ソ連国家映画委員会副議長(映画省副大臣)と親交を持ち、アレクサンドロフ一行が1974年11月に来日して岡田と交渉を持ったことから、ソ連は東映のカラテ映画を欲しがり、東映と密接なコンタクトを持つことで合意していた。本作は派手好きな欧米人に受け入れられ、特撮ではミニチュアを使用した撮影と思われない評価をされている。

海外版編集
フランスに駐在していた東映国際部部長・杉山義彦は、公開直後に岡田社長に突然呼ばれ、海外で売るように指示を受けた。岡田社長から「海外版を編集せよ」と指示を受けた杉山は、助監督時代に佐藤監督から若干の指導を受けただけのほぼ素人ながら、佐藤に了承を取り付け「佐藤監督を差し置いて僭越ながら」海外版の編集を行った。佐藤は「海外版に関しては、僕はノータッチ」と述べているが、杉山は「倉持指令室長が運転手に指令を出すシーンで、列車制御について、織烈な応酬が繰り返される場面は絶対に残して欲しい。それ以外は好きに編集していいと言われた」と述べている。

海外版では主演の表記をサニー千葉(千葉真一)に変更しており、これは千葉のほうが高倉健より海外では知名度が高いためである。日本のスターが集結した超大作というよりも、アクションスターである千葉主演のパニック映画として封切りされていった。
英語圏では『The Bullet Train 』にて115分、フランスで『Super Express 109 』もしくは『Crisis Express 109 』にて100分でそれぞれ公開されている。海外版では犯人側のドラマをカットしたおかげでテンポがとてもよくなり、次々襲いかかる危機と息をつかせぬ展開となった。フランス語版でも上映時間を2/3の102分に短縮して犯人側のドラマをカットしており、高倉や山本圭は単なるテロリストとして扱われた。鈴木常承東映取締役兼東映洋画部長は、1976年8月のインタビューで「洋画の最近の大ヒットしている写真を見たって、2時間が限度。『ジョーズ』だって2時間でその中に濃縮しているわけです。それで金の掛け方は日本映画の何十倍ですから。『新幹線大爆破』なんて、予算も大してかけてないものが2時間何十分になってる。もっと縮めて中身を濃くしないといけないです」と話していた。

特にフランスではそれまで日本映画をマイナー扱いし、アートシアター形式の小劇場でしか上映されなかったという前例を破り、1976年6月30日からパリおよび近郊のゴーモン系劇場17館で一斉公開され、8週間のロングランヒットを記録。この時期、フランスはバカンスシーズンに当たるが、この年夏にパリで公開された84本の映画のうち、第4位の興行成績で、外国映画ではこの年カンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した『タクシードライバー』に次ぐ2位だった。ヒットの理由は「フランスにも日本の新幹線に触発されて開発中だった高速鉄道のTGVがあったから」との声もあり、約44万人の動員を記録し、100万ドルの外貨を稼ぎ、会社に3億円の収入をもたらしている。
フランスでの大ヒットを皮切りに世界各国で公開され、続々大ヒットを記録し、多くの国で日本映画の興行記録を更新、南アフリカ共和国では日本映画初の大ヒットとなり、同国ではアメリカ映画のヒット作2~3週興行に対して3週以上続映された。オーストラリア・ニュージーランドは、20世紀FOXの配給でヒット。東南アジアは1976年後半からの逐次公開で、千葉真一と志穂美悦子が国民的人気を誇るインドネシアでは予想通りの大ヒット。ブルガリアでは当時、ソフィア-ブルガス間に160km/hで走る自慢の超特急を運行していたが、それを遥かに凌ぐスピードの超特急に感心し、それもコンピューター制御にビックリし、観客はドヨメキと拍手、溜息の連続で、映画が終わると観客はグッタリしていたといわれる。
当時のヨーロッパの一般の人たちの日本に対する知識はごく僅かであった。ドイツでは『Panik im Tokio-Express 』、他にスペインで『Panico en el Tokio-Express 』、イランで『BOMBA U SUPEREKSPRESU 』 など、1976年12月の時点で120か国で公開されたとされ、ソ連および、東欧圏の全ての国で公開され、ソ連では2500万人以上が観たのではといわれ、100か国のポスターが存在するといわれる。犯人側と国鉄側ともに労働者に焦点があたっている内容ゆえか、東ドイツなど共産圏でも公開され好評を得た。

1975年から1976年にかけて輸出された東映作品の中で抜群の売れ行きを見せ、1976年12月18日からは日本でフランス語吹き替え版が凱旋公開された。日本において不入り映画が再上映されるのは珍しい事例といわれる。

佐藤純彌は海外版の大ヒットに複雑な思いがあり、フランス語版のテレビ放送を見た知人から「面白かったよ」という電話に対し、「本当はもっと面白かったんだ」と言い返していた。1975年のロンドン映画祭のみ、日本版が英語字幕で上映され、「ベスト・アウトスタンディング・フィルム・オブ・ザ・イヤー(特別賞)」を受賞している。

没となった設定・エピソード
1975年3月時点での脚本では、乗客に甲子園遠征に向かう長嶋監督ら巨人ナイン、名古屋場所へ向かう北の湖、人気歌手の西城秀樹も乗り合わせたという設定だった。

当時市販された映画の台本集には、浜松の故障車発生での上り線移動のシーンの次に岐阜羽島付近の変電所のトラブルで送電が停止してしまってひかり109号も速度が落ち始めるシーンが入っていたが、公開された映画ではカットされていた(故障が直らないので電気指令長が係員に隣接の変電所から緊急送電させろと指示するが、トラブルの影響でその変電所からも送電は出来ないといわれ、更にその隣から緊急送電させろと指示し、その2つ隣の変電所からの緊急送電に成功したおかげでギリギリで送電が再開されて九死に一生を得るというような内容だった)。

後日談
前述のように新幹線車内や司令室にたくさん金をかけて製作したため、封切り前から「たった一作きりでバラすのはもったいない」と、これらセットを使った映画の次回作製作がほぼ決定していて、その作品は、森村誠一原作の『新幹線殺人事件』だった。これは当時日本でイギリス映画の『オリエント急行殺人事件』がヒットしていた影響があった。『新幹線大爆破』の封切り前日までこの製作を予定していたが『新幹線大爆破』が不振だったため中止となった。
結局『新幹線殺人事件』は東映がテレビ朝日/朝日放送と共同製作した『土曜ワイド劇場』の第3回として1977年7月16日に放送されたが『新幹線大爆破』のセットを使用したかは不明。

2014年の報道では、東映に『新幹線大爆破』の状態のいいフィルムは1本しかないという。




TOP

弊社の配信するコンテンツ・動画等の整合性・信頼性に関しては万全を期しておりますが、
それにより生じた損害に対しては一切 の保証を負いかねます。
弊社が提供するコンテンツを無断で複製すると、著作権侵害となります。
Copyright (C) 2020, zeicompany. All rights reserved.
Free to Link
直線上に配置