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円谷英二的日本特撮映画史



日本海大海戦
 ★★★
1969年(昭44)8月13日公開/東宝/158分/
カラー/シネマスコープ
 
製作 田中友幸 脚本 八住利雄  監督 丸山誠治
撮影 村井博 音楽 佐藤勝  美術 北猛夫
 特技監督 円谷英二  撮影 富岡素敬
真野田陽一
美術 井上泰幸
合成  向山宏  照明 原 文良 光学撮影 徳政義行
 - -  操演  中代文雄  監督助手 中野昭慶
出演-三船敏郎・加山雄三・仲代達矢・稲葉義男・藤田進・土屋嘉男・平田昭彦・笠智衆・松本幸四郎・加藤武・辰巳柳太郎・草笛光子


円谷英二特技監督の最後の作品。

東宝8.15シリーズの第3作。前作「連合艦隊司令長官 山本五十六」と同じ丸山誠治監督。三船は前回ほどの適役には思えない。
脚本自体に難があり、時系列的な描写が不足しているように思える。
バルチック艦隊が日本へと向かう時間経過と、それには旅順陥落が不可欠だという切羽詰まった状況が説明不足。

また艦隊が日本海に侵入、迎え撃つ東郷平八郎率いる連合艦隊がどのような戦陣を作ってどのような戦法を使ったのかも
ナレーションだけでなく図に示して説明すべきだった。また敵味方の識別と各艦隊の識別がよくわからない。


特撮シーンは、飛行機もまだ実用化されていな戦争なので派手さはないが手堅く演出されている。
ホリゾントの拝啓が素晴らしい。また煙の重量感が良くできている。
ただ合成はこの時代でも未だまだ。技術的に難しいのだろうが、一見して合成だとバレる。

Wikiによると、艦船のミニチュアは美術スタッフ60人を動員して107隻が用意された。また、戦艦三笠のミニチュアは13メートルにおよぶ巨大なものが造られた。海戦シーンでは、日露戦争当時では太平洋戦争当時よりも砲弾の威力が弱いことを考慮し、フロンガスによって水柱を表現しているとの事。

「ハワイ・マレー沖海戦」から27年。
数多くの特撮映画を作ってきた円谷英二特技監督は、この映画の公開から半年後に逝去した。

以下Wikiより転載

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1970年(昭和45年)、1月25日、静岡県伊東市の浮山別荘にて妻マサノと静養中、
気管支喘息の発作に伴う狭心症により死去(68歳)。

1月30日、日本政府より勲四等瑞宝章を授与される。
2月2日、藤本真澄を葬儀委員長として、東宝撮影所で友人葬が行われた。
3月1日をもって、東宝は「特殊技術課」を正式に廃止。ひとつの時代が終わる。

東宝は彼の死後まもなく本体での映画製作を中止。円谷の死とともに東宝映画も終焉を迎えた。

「円谷英二ミュージアム」が故郷の須賀川市に2019年1月11日オープンした。
2021年、出身地の須賀川市は同郷の円谷幸吉とともに円谷英二に「名誉市民」号を贈ることを決め、同年7月7日に授与式を実施する予定である。

子供にサインを求められると、自分の名前を図案化した「スキーボーヤ」を描き、大人には「子供に夢を」と書いた。『モスラ』で幼稚園児からファンレターが来た際には、仕事の合間にモスラを作り、プレゼントしている。東北地方で怪獣ファンの児童が交通事故死した際には涙を流し、小さな怪獣を作って仏壇に添えてあげた。
短気なところもあり、広瀬正一は1966年、「また、怪獣役を頼むよ」と言われた際に「ちょっと別のシャシンが入っているんで」と答えたところ、「ああ、じゃあもういい!」と言われ、それっきり怪獣役は回ってこなかったそうである。

何につけても判断が早く、即決で物事を進める性質だった。『ウルトラQ』制作時にも、企画段階にも関わらず、当時で4千万円するオプチカル・プリンターを払える当てもなしにアメリカに発注してしまったというエピソードが残っている。

ロケ先で雨天待機になった時など、旅館にあった三味線や、旅館中の壊れた時計全部を持ってこさせ、暇潰しにそれら全てを一晩で直してしまったことがある。驚く女中たちに、「こういうものは雨が降っていると、湿気の関係でうまく直るんだよ」などととぼけていた。また「時計というものは地磁気」の影響を受け易いから、東を背にして10時の方向に置くのがいちばん良い」と、時計を置く位置まで指示した。あとで中野昭慶がその真偽を問うと「そんなことあるわけないじゃないの」と答え、旅館の女将や女中らの驚きぶりを思い出しながら笑っていたという。

「空中を飛ぶ飛行機は、どうやって爆発させているんですか?」と取材で聞かれた際には、「あれは火薬をピアノ線で吊っておいて、そこに飛行機をぶつけて爆発させているんだよ」などととぼけた返事をしている。

新し物好きでも知られ、カメラは8ミリから16ミリ・ポラロイド。また、ステレオ、洗濯機など新製品が出るとすぐに買い揃えた。テレビに至っては新商品が出る度に買い、自宅に常に6台ほど揃えていた。また、これらを分解・再組み立てするのが趣味だった。基本的に機械いじりが大好きだった。飛行機や機関車のミニチュアなどは、自らも制作に加わるほどであり、機関車マニアでもある脚本家の関沢新一とは、新作映画が企画されるごとに、今度はどんな列車のミニチュアを出すかの話題で互いに盛り上がっていた。孫の円谷一夫は子供のころ、怒られたことがなかったが、零戦の模型の組み立てを途中で放り出した時だけは大声で怒鳴られたという。
ミニチュアの動力用に電動モーターを買い集めており、伊福部昭は『ゴジラ』の際に自宅を訪ねた際に、部屋に数十個のモーターがあるのを見て驚いたと語っている。円谷は伊福部に「モーターで一番動力の強いのはジューサーミキサーのモーターだよ」と説明したという。

仕事に関しては非常に厳しかったが、大抵はにこやかで、若いスタッフたちが一所懸命セッティングをしている後ろで、面白そうににやにやして眺めているような姿がよく見られたという。ただ、機材の扱いや、予算と直結しているタイアップ会社のミニチュアのネオンサインの作りが悪かった時や、また、「カット」がかかった後もカメラが回っている時などには怒鳴ることがよくあった。

特撮の現場は未知の分野であり、撮り直しがきかず、また、若いスタッフが多く、人命に関わるような危険を伴っていたこともあって、現場の重圧感、緊張感は並大抵ではなかった。中島春雄によればそうした中、円谷はスタッフが準備している横で、「よく口を開けて居眠りをしていた」という。が、それはあくまで狸寝入りであり、そうした格好をしていても、常に現場の隅々まで目を凝らしていて、スタッフは気が抜けなかった。特撮でピアノ線が写ってしまったようなときには、高野宏一や有川らキャメラマンに「後で俺に釜飯おごれ」と言うのが恒例で、これらのカットは弟子たちに「釜飯カット」と呼ばれたという。また、常に仕事の姿勢として前を向いており、若いスタッフに対して、過去の仕事の話をすることは一切なかった。

反面、「仕事を離れると本当にジェントルマン」(中島春雄談)であった。仕事が終われば、スタッフを引き連れ、酒を飲みに行くことも多かった。もちろん、円谷のおごりである。前述の「釜飯」のエピソードにしても、実際に釜飯をおごらせるということはなく、こういう酒宴の口実だったそうである。身なりにも無頓着で、茶目っ気たっぷりな好々爺であった。実相寺昭雄は仕事でスタッフと円谷の自宅を訪問する度に鰻を御馳走され、「僕はカレーライスで充分なんだ」とニコニコしていた姿を印象深いものとして述懐している。こうした親分肌の人柄から、有川ら門下生は円谷を「オヤジ」と呼んで慕っている。円谷が亡くなると、有川や中島など、やりがいをなくして現場から離れたスタッフは多い。

初の本格的な特撮怪獣映画である第1作の『ゴジラ』の制作に当たっては、まず現場のスタッフ集めから始めなければならなかった。そして、急遽集まったスタッフは、ほとんどが特撮どころか撮影すら未経験の20歳そこそこの若者たちだった。この未熟な陣営で、短期間で歴史に残る特撮をまとめあげられたのは、円谷の人格面での吸心力も大きい要因であったともいえる。

円谷は現場ではあまり口出ししなかった。怪獣の立ち回りは中島春雄に一任されていた。反面、造形的な要求はかなり細かく、『キングコング対ゴジラ』でのゴジラの顔の作りには数度にわたり指示を出している。キングギドラのデザイン検討では、神社の狛犬を3時間にわたって熱心に観察し、東宝初の本格的宇宙怪獣の顔に、東洋の龍の意匠を盛り込んだ。美術スタッフの井上泰幸は、『地球防衛軍』で「人工衛星の上部を本体と逆回転させて欲しい」という円谷のイメージ面での要求に苦労し、かなり反発したと述懐している。

一方、現場でいきなりアイディアを出すことも多く、「口を開けて居眠り」していたかと思えば、がばっと起き上がって指示を出すこともしばしばで、現場スタッフもこれに臨機応変に対応していた。『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』で、作画合成の光線が当たった森の樹木が、火薬の発火によって水平に切断されていくシーンなども、本番前に円谷が思いついたものである。

1943年に袂を分かって松竹へ移籍した川上景司を、20年を経て後の円谷特技プロ設立の際に何の遺恨もなく迎え入れた度量の広さは、業界でも語り草だったという。『ウルトラマン』制作時、円谷特技プロ内で『ウルトラマン』よりも、旧知の仲でもあるうしおそうじが設立したピープロ制作の『マグマ大使』の心配ばかりしていたそうで、実際に撮影現場を訪れたこともよくあったという。また、他社作品である『大怪獣ガメラ』(大映、1965年)や『大巨獣ガッパ』(日活、1967年)などの作品には、請われる形で円谷組のスタッフが多数参加しているが、全て黙認していた。中島春雄は「ふつうは怒るよね。ほんとオヤジさんは懐が深いよ」とコメントしている。築地米三郎によると、大映の戦記映画『あゝ零戦』(1965年)では、東宝特美課の零戦のミニチュアを円谷から個人的に貸し出してもらったという。

数々の特撮作品で組んだ本多猪四郎との息の合いは伝説的であり、ほとんど「あれ」「それ」といった言葉で演出意図を通じ合わせていたという。円谷粲によれば、当時の日本映画界を代表する二大巨匠として、黒澤明とは少なからず意識し合う仲であり、互いの作品の試写は両人とも必ず観ていたという。1作目の『ゴジラ』で、黒澤から「今度のあれはなかなか良かったよ」と声をかけられた際は、上機嫌でこのことを家人に話していたといい、黒澤が『椿三十郎』を撮ったころには、「あいつはいいよなあ。あんなにフィルムを使えるのはあいつくらいのもんだもんな」と羨ましがっていたという。黒澤は『空の大怪獣ラドン』では「特撮映画にも季節感が必要だ」などと進言、田中友幸は得るところ大きかったと語っている。松林宗恵とは、互いに「円谷の爺っちゃん」「和尚」と愛称で呼びあう仲であった。




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