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円谷英二的日本特撮映画史



ゴジラ★★★★★
1954年(昭29)11月3日公開/東宝/97分/
モノクロ/スタンダード
  
製作 田中友幸 脚本 村田武雄
本多猪四郎
 監督 本多猪四郎
撮影 玉井正夫 音楽 伊福部昭  美術 中古智
 特殊技術 円谷英二  撮影 有川貞昌 美術 渡辺明
合成  向山宏  照明 岸田九一郎  造形 利光貞三
     撮影
助手
富岡素敬・真野田陽一
樺山幸男・円谷一
 美術
助手
井上泰幸・入江義夫
成田亨
出演-宝田明・川内桃子・志村喬・平田昭彦・堺左千夫・村上冬樹・高堂國典・菅井きん

記念すべき「ゴジラ」第一作。

やはりこの映画はただの荒唐無稽な怪獣映画ではなく、焦土となった戦後9年を経て、日本でしか作られることのなかった、必然の映画だったのだと分かる。

「ゴジラ」はただの怪獣ではなく、東京大空襲であり原爆であり水爆実験の象徴として登場する。被爆国であるからこそ、当時繰り返されていた水爆実験への警鐘を鳴らす映画となった。

本多猪四郎監督は復員後、焼け野原となった広島を電車内から目撃していた。映画の中でも、焦土となった、ヒロシマの記録映画そっくりな、横ドリーのカットがある。そしてそれに続く、避難先となった講堂内の横ドリーカットへとOLしている。

志の高い製作者たちに、ただただ、拍手を送りたい。

特撮シーンでは、やはりモノクロ、そしてゴジラの上陸が夜に限られているのが一層の恐怖を醸し出す。ゴジラの歩き回るルートは細かく決められ、それぞれのミニチュア造形物を崩壊させていく。

線路に侵入し、ビル群を破壊していくスローモーション撮影。放射能を吐く頭部ギニョールや、戦闘機攻撃シーンでの微速度撮影。無声映画時代からカメラ撮影に親しんできた、円谷英二だからこそ出来る、様々な撮影技法。

戦前から自作のスクリーンプロセス機器を考案して来たからこそ出来る、見事な合成カット。

実写シーンでの鳥かごの鳥と、特撮シーンでの動物園での鳥かごとコジラのカット。米国帰りの重役、森岩雄の指導の元、絵コンテを元に見事に融合した本編と特撮シーン。どれをとっても、製作者たちの思惑が一体となって傑作映画を誕生させた。


以下Wikiより転載
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特撮映画研究家の竹内博は『ゴジラ』について「演出・脚本・特撮のいずれをとっても最上の出来であり、これを超える怪獣映画は日本にないと言い切ってもよい」と1983年12月に述べ、SF研究家の大伴昌司は1969年11月に「不安やパニックの描写に優れ、本編と特撮とが融合している唯一の作品であって、核兵器反対というテーマを真正面から打ち出すなど映画史上にも残る傑作である。これ以降に出現したさまざまな怪獣映画は畢竟『ゴジラ』の蛇足に過ぎない」とする。

本作品のプロデューサー田中友幸は1953年に「太平洋の鷲」(本多猪四郎監督)、その後に『さらばラバウル』(本多猪四郎監督)を製作した際に、前年に東宝に復帰したばかりの円谷英二と出会い、円谷が手掛けた特撮の成功もあって「特撮物はいける」と実感していたという。
この田中が『さらばラバウル』の製作のかたわら全力で進めていたのがインドネシアとの合作映画製作の企画だった。
作品名『栄光の影に』監督:谷口千吉、脚本:梅田晴夫。主演には山口淑子と池部良を起用し、インドネシア独立のためにオランダとの独立戦争を闘った元日本兵の姿を描くという映画のストーリーも決定する。
しかしクランクイン直前に、インドネシア側から製作を承認することはできないとの通告を受領。田中は後年、合作映画の企画は非常にうまくいっていたが、まだ国交もないのに合作映画を作るとは何事だと向こうの大臣に反対されて追い返され大変辛い思いをしたと語っている。

田中は急遽代替企画を立てざるを得なくなった。ちょうどその頃、ビキニ環礁での核実験と第五福竜丸、第十三光栄丸の被爆事件が社会問題となっていた。これに着想を得た田中は、「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」という特撮映画の企画を立てた。この時点での企画仮題は、『海底二万哩(マイル)から来た大怪獣』であった。

田中がこの企画を東宝本社の企画会議に提出したところ、製作総指揮の森岩雄の目にとまることとなった。森は戦前から東宝に関わり、円谷を東宝に招いた本人であるが、1952年(昭和27年)に公職追放解除を受け、本社に復帰してハリウッド視察を行い、特撮映画の重要性を再認して、戦後解体されていた「特殊技術課」を東宝内に再編成し、円谷を再度招いてこの部門の強化を進めていた。
しかし東宝上層部が「到底撮影は無理」として満場一致で反対するなか、森岩雄ただ1人がこの企画に賛成意見を述べ、強硬に支持し、ついにはGOサインにこぎつけることとなった。

この前代未聞の企画に臨み、本企画は「G作品」(Gはジャイアントのイニシャルから)と銘打たれ、極秘裏に進行されることとなった。
大まかなストーリーや怪獣の設定が決まると、田中は次に、文芸部の松下忠と2人で、田中自身ファンであった怪奇幻想作家の香山滋の自宅を飛び込みで訪ね、原作執筆を依頼したところ快諾を得た。5月中旬のことだった。こうして香山の筆によって、田中曰く「シナリオ風の原作」が1週間ほどして完成し、これを基に「G作品検討用台本」が印刷された。この時点で、正式に円谷英二が企画に参加することとなった。

円谷は1952年(昭和27年)の春に「海から現れた化け物のようなクジラが東京を襲う、また、1953年(昭和28年)には「インド洋で大蛸が日本の捕鯨船を襲う」という特撮映画のプロットを企画部に提出していた。この円谷の企画の着想は、1945年(昭和20年)の東京大空襲の最中、防空壕に避難していた時に思いついたものであり、家族に対しても、これで戦争の恐ろしさを書いてみたいと語っていた。このいきさつもあり、円谷は怪獣の設定を「大蛸」にすることを主張した。一方、田中は「(当時の)風潮によりマッチする」としてこれを「太古の恐竜」とすることを主張、結果として田中案が採用され、主役の怪物のキャラクターは「太古の恐竜」となった。

田中はただちに監督に、前年に2本の特撮作品『太平洋の鷲』と『さらばラバウル』で円谷と組んだ本多猪四郎を抜擢、また、同じく前年に円谷と日本初の立体映画『飛び出した日曜日』を撮った村田武雄をいれ、本多と村田の2人で脚本製作に入ってもらった。
田中友幸は、題名が『海底二万哩から来た大怪獣』では長いので、もっと良い題名はないものかと考えあぐねていたところ、佐藤一郎プロデューサーから、当時東宝演劇部にいた"「クジラ」が好物で「ゴリラ」のような容貌"をした網倉志朗(後の東宝演芸部部長)という人物のあだ名が「グジラ」だと聞きつけ、語呂の良いこのあだ名を参考にし、「ゴリラ」と「クジラ」を合わせて「ゴジラ」とした。しかし、この名称もまだ完全決定というわけでなく、「"ゴジラ"では印象が弱いから"ゴジラー"にしては」といった意見もあったという(向山宏談)。

村田と本多による「G作品準備稿」が仕上がると、「ピクトリアル・スケッチ」(場面ごとに画にしたイメージ・ボード)が制作された。
渡辺美術監督が飯塚定雄ほか、4、5人の学生を指導して描き上げた、全228シーン、306カットに上るこの絵コンテは企画室に張り出され、森製作部長を前に、村田、本多、円谷、田中がシーンごとの説明を行い、検討が重ねられた。浅井正勝によると、ゴジラの吐く「白熱光」や「光る背びれ」は、こうした検討段階で「かっこつけ」で生まれたアイディアだったという。この検討会議が終わると、森岩雄は「成功疑いない」と宣言したという。

次に「ゴジラ」のデザインが検討され、『サンケイ新聞』夕刊で『山男ダンさん』を連載中だった漫画家の阿部和助にデザイン画が依頼されたが、この起用は、「関係者による子供たち相手のアンケートの結果による」と当時報じられている。阿部のデザインはキノコ雲のイメージが強すぎたため、参考程度にとどめ、実際のデザインは渡辺明が行った。渡辺、利光貞三による粘土原型が完成したのは6月末のことだった。

当初、円谷英二はゴジラの撮影方法について欧米に倣い、人形アニメの技法を検討したが、11月3日の封切り上映日から逆算して工程上無理と判断し、演技者が中に入る形でのぬいぐるみ方式を採った。メインの演技者を務めた中島春雄は円谷に、「人形アニメでやれば7年かかるが、お前が演ってくれれば3ヶ月でできる」と口説かれたという。それまでの映画の怪獣というと人形アニメでの表現しかなく、カメラマンの有川貞昌も中島も「ぬいぐるみでやるぞ」と円谷に言われても全くイメージが湧かなかったという。『ゴジラ』は本格的な「ぬいぐるみ怪獣」としても日本初の取り組みだった。

制作に当たっては超大作の扱いで公称7,000万円(当時)の大型予算が組まれ、本編では黒澤組から志村喬を準主演に、成瀬組からカメラの玉井正夫美術の中古智、照明の石井長四郎を迎え入れるなどベテランを起用。
予算面での規模が大きかったため、当時製作部長だった北猛夫を特別に「美術監督」に据えている。 特撮を担当した円谷英二は本作のために飯塚定雄、井上泰幸、開米栄三、入江義夫など各方面から若いスタッフを集め、彼らは後に日本特撮界に欠かせない重鎮となった。これらのスタッフについては本多組の本編A班、円谷組の特撮B班、向山組の合成C班の3班体制がとられた。

ラストシーンの海中撮影のため「日本で最も海の水の透明度の高い処」の調査がなされた結果、伊勢志摩の五ヶ所湾がロケ場所に選ばれ、同時に「大戸島」のロケ地にも決定。8月2日には鳥羽ロケの先発ロケハン隊が出発。円谷組の特撮B班がゴジラの造形などに手間取り準備が遅れたため、本多組の本編A班が特撮B班に先んじて8月7日に撮入。「大戸島」に設定した伊勢志摩の三重県鳥羽市石鏡町(いじかちょう)ほかで1週間にわたるロケを行い、51日間かけて9月下旬にクランクアップした。

円谷組の特撮B班の撮入は少し遅れて8月下旬からとなり、10月下旬まで71日間、都合3か月かけての撮影となった。円谷監督は若いスタッフを率い、徹夜作業を重ね凝りに凝って撮影に当たった。「朝9時にセットに入り、準備を経て17時ごろから撮入、朝の4 - 5時に撮影を終える」という連日の強行スケジュールで、スタッフからは「ゴジラは5時らにならないと終わらない」と言われた。
ミニチュアの設営に時間がかかるため、大道具係から照明係に至るまで総動員してもこのような進行にならざるを得なかったのである。公開時の「東宝スタジオ・メール」に円谷は「だんだん調子が出てきてこれならと思っているうちにクランク・アップした。特殊撮影では、最高を誇るアメリカ映画界に負けない自負を持っている。自慢したいようなしたくないような、妙な気持ちです」とコメントしている。

10月25日に作品が完成。東宝撮影所では完成を祝い、興行成功を祈って本尊にゴジラの撮影用の2号ぬいぐるみをまつり、宮司役に平田昭彦、巫女役には河内桃子が扮して撮影所中庭で神式の「ゴジラ祭」(修祓しゅばつ式)が行われた。田中、本多、円谷らのスタッフ陣と香山滋が祈祷を捧げている。
この「ゴジラ祭」の後、東宝の上層部、スタッフを集めて撮影所内で行われた「所内検定試写」では本編と特撮のあまりにも素晴らしい出来栄えに場内は総立ちとなり、巻き起こった万歳斉唱と大拍手はいつまでも鳴り止まなかった。
そんな中、原作者の香山はラストシーンでゴジラがオキシジェン・デストロイヤーによって溶けて死ぬシーンを哀れに思い、1人座ったまま感極まって泣いていた。マスコミ向けの関係者試写が浅草宝塚劇場で行われたが、この際も香山は目を潤ませていた。円谷によると香山は作品の出来に感激し、公開後にはスタッフ一同を招いて熱海で一泊の宴席を開いてくれたという。

こうして完成した本作は封切りと同時に当時としても例を見ない観客動員数を記録して空前の大ヒットとなり、東宝の同年度の初日観客動員数の記録を塗り替えた。渋谷東宝に並ぶ観客の列は道玄坂まで伸び、待ち時間は2時間に達した。封切り初日は都内だけで14万 - 15万人の動員があったという。あまりの大入りに、田中友幸自ら渋谷東宝や日劇でチケットもぎを手伝うこととなった。1番館での封切り動員だけで観客動員数は961万人に上り、国民のほぼ10人に1人はこの映画を見たことになる。

『ゴジラ』の成功は、当時傾いていた東宝の屋台骨を一気に立て直したとも言われている。東宝の重役陣もこの大成功に喜び、撮影スタッフらが重役室に招かれ、各館の興行レコードが次々報告される中、藤本真澄ら本社重役がビールや洋酒をふるまうという
異例の待遇でこれをねぎらった。東宝では封切り劇場内で多数の児童にアンケートがとられ、ゴジラに同情する意見が多く寄せられた。観客からも「なぜゴジラを殺したんだ?」「ゴジラがかわいそうだ」という抗議の声があがった。宝田明も「ゴジラにシンパシーを感じた」「なぜ人間が罪のない動物を殺さなければならないのか、無性に涙が出るのを禁じ得なかった」と述べ、脚本担当の村田も「ゴジラがかわいそうですよ」と語るなどスタッフにも同情の意見は多い。

一方、公開時の日本のジャーナリズムの評価はおおむね低く、「ゲテモノ映画」「キワモノ映画」と酷評されることも多かった。各新聞の論評でも特撮面では絶賛されているものの、「人間ドラマの部分が余計である」として本多の意図したものを汲んだ評価はなされなかった。
しかし、田中によれば当時、三島由紀夫だけが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」「文明批判の力を持った映画だ」としてドラマ部分まで含めて本作品を絶賛した。著名人としてはのちに小津安二郎、手塚治虫、淀川長治、水木しげるらが本作品を絶賛している。
作品は外国でも大評判となり、すでに特撮技術者として並ぶ者のなかった円谷英二の名が外国にまで広く知れ渡ることとなった。田中や本多は「まず欧州で認められ、米国で大ヒットしたことで日本国内の評価が定まったようだ」としている。

大作『ゴジラ』の公開に当たっては東宝の営業・宣伝部の斉藤忠夫、内田和也らによって現在でいうメディアミックス形式での派手な前宣伝が行われた。まず、長期宣伝の手始めとして、まだ撮影にも入っていない公開から4か月先立つ7月5日に各新聞紙朝刊において『ゴジラ』の題名とともに製作発表を行っている。
続いて、7月17日よりニッポン放送でラジオドラマを開始。公開間際には、雑誌、週刊誌、新聞、電車の車内吊りなど、あらゆる宣伝媒体を用いて入念な宣伝が行われた。また、公開前後には、ゴジラの人形を乗せた宣伝トラックが都内を周遊し、さらにこれをあおった。ゴジラの宣伝用ビニール人形も東宝で用意されたほか、ゴジラの原デザインを担当した阿部和助による漫画も発行され、劇場で配られた。少年雑誌とのタイアップ特集記事では、撮影に使用したゴジラのぬいぐるみの「水葬イベント」が行われた。
結果として『ゴジラ』は東宝の興行史に残る一大宣伝作となった。工藤明宣伝部部長(当時)は公開翌年に、1954年度の宣伝成功作として、『七人の侍』『生きる』『蝶々夫人』を挙げたうえで、この『ゴジラ』をこれらを上回る「空前の大ヒット作」と振り返っている。

本作では作曲家伊福部昭による劇中音楽も評価が高く、特にメインタイトルテーマは後の「平成ゴジラシリーズ」にも受け継がれている。
伊福部は、田中が製作した『銀嶺の果て』(谷口千吉監督、1947年)が映画音楽デビューで、掛下慶吉の推薦もあり、同じ田中に見込まれての依頼だった。担当が決まり、本作の製作発表で会見を受けた後、伊福部に対して、「ゲテモノ映画の音楽なんかやってると、仕事がとれなくなるよ」と、大真面目で忠告してくる人もいたという。
しかし、伊福部は「とんでもない、と大乗り気でやりました」と語っている。これには伊福部自身が水爆実験の結果誕生したゴジラという怪獣に対し、戦後の混乱期に放射線障害を負っていた自分自身が重なり、「どうも他人事とは思えなかった」という意識もあったということを明かしている。

伊福部は本作について、「特撮映画は下手な音楽論が出てこないから大好きだ」「とくに爬虫類が活躍するなんていうと黙っちゃおれないという気がします」とし、「近くの幼稚園から聞こえてくる音楽が虚脱した旋律ばかりで、こんな教育してたら子供はダメになると考えていたところ、ちょうど子供が『ゴジラ』なんかをみる年頃だったので、それじゃあひとつと、かなり真面目にやりました」と述べていて、つねづね「子供に聴かせる音楽に嘘はいけない」としていた伊福部は、この『ゴジラ』では「大きいものが出てくる場合は大きい音で」という正攻法の作曲を心がけたという。

こうしたわけで、ゴジラの主音は「大きな音」が出るコントラファゴットやチューバが使われた。コントラファゴットは当時、東京芸大に一つしかなく、前日に借りるなどして楽器集めには苦労したという。また、重低音の楽器が主旋律となるため、「連日の吹奏で演奏者は脳震盪すれすれだった」と語っている。

オーケストラはNHK交響楽団による。スクリーンに本編を映写しながらの演奏録音だったため、演奏者が演奏そっちのけで背後の画面に見入ってしまい、自らタクトを振った伊福部は「ひどい目にあいました」と語っている。演奏自体は和気あいあいとした雰囲気で行われたが、演奏メンバーの中には、この作品の「ドシラ、ドシラ…」という音階の「ゴジラのテーマ」に、「ゴジラ、ゴジラ、ゴジラが出てきたぞ」と歌詞をつけて歌う者がいたという。

黒柳徹子は、自らが聞き手を務めるトーク番組で『GODZILLA ゴジラ』の番宣を兼ねてゲスト出演した渡辺謙に、NHK交響楽団のコンサートマスターだった父(黒柳守綱)」について「最初のゴジラには私の父のバイオリンが入ってるんです」と明かし、渡辺が「1954年ですよ!」と感心して話すと、黒柳は「ええ。ジャジャジャンというあの音楽を聴くと父を思い出すんです」と語った。

伊福部は1949年(昭和24年)に、出張先の京都での月形龍之介との酒席が、円谷英二(公職追放中で困窮していた)との初対面だったが、月形が知り合い同士と思って紹介しなかったため、互いに名も知らないまま、しばらくは会うたびにただ酒をおごらされる付き合いとなっていた。その5年後、本作の制作発表の壇上で再会し、初めて互いの素性を知って驚いたという。こうしたいきさつで円谷とは「気兼ねなく仕事ができた」といい、本作では例外的に編集前の特撮フィルムを見せてもらい、作曲イメージを構築したという。ただ、この作品での円谷はかなり秘密主義だったため、白抜けのフィルムだけを見せられることもあり、これには閉口したという。

伊福部の作曲は劇伴だけでなく、「オキシジェン・デストロイヤー」の実験時の効果音的旋律などにもおよんでいる。ゴジラの鳴き声は伊福部の発案で、外したコントラバスの弦を松ヤニをつけた皮手袋でしごいて起こした音を、音響技師の三縄一郎が加工して使用している。この「ゴジラの声」は、以後の作品でもさらに加工して連綿と使用されている。タイトルバックから鳴り響く「足音」は、録音技師の利根川孝太郎が自作していた音響増幅用の箱を、試しに叩いてみたところちょうどいい音がしたので、伊福部が採り入れ、劇伴録音の演奏場に持ち込んで、三縄一郎、下永尚とで使った。
なお、このタイトルバックにおける「鳴き声」と「足音」は効果音ではなく劇伴音楽(メインタイトル・M2)として伊福部は指定しており、譜面も現存している。

田中友幸はこの企画のテーマを「水爆に対する恐怖」とした。脚本を担当した村田はラストシーンの山根博士の台詞に「原水爆反対の悲願を込めた」と語っている。
監督を務めた本多猪四郎は本作品のクランクインに際して「この映画で私の狙う真実は、水爆下の恐怖に戦く現代人の心理的デフォルマシオンである。破壊の恐怖と絶望がフィクションの中から心に迫り、一つの反省を与えることができれば幸いに思う」と抱負を語った。また、後に本作品について「私自身も思いもよらぬ影響を与えた作品であり、良いにつけ悪いにつけ『ゴジラ』は私の人生を大きく決定づけた」と述べている。

本多猪四郎は戦後、中国の天津から復員し門司を経て汽車で東京へ帰る途中、原爆による被害で廃墟と化した広島の街を見て大きな衝撃を受けていた。そのため本多は制作するに当たり、田中、円谷と3人で「撮影に当たり我々自身、決して荒唐無稽の怪獣映画との照れの気持ちを持たないこと。原爆の驚怖に対する憎しみと驚きの目で造っていこう、現に目の前に原水爆実験で蘇生した、とてつもない怪獣が日本へ東京へ現れたらどうするか、その現実感の狙いを忘れないで撮影しようとかたく申し合わせた」と著している。

実際の演技指導に当たっても、その方針の通り円谷と入念に打ち合わせを行い、ゴジラを前にした演技者たちの目線の統一を徹底することで画面にリアリズムを持たせている。
公開時には「生き物が火を吐くわけがない」として『ゴジラ』をゲテモノ扱いするマスメディアの評価もあったが、本多は「放射能が炎でないことはわかっている。しかし、目に見えない放射能を目に見える形で描かないと核の恐ろしさは伝わらない。つまり、あれは映画的な嘘である」と述べている。また、本多は「いちばんの被害者はいつも民衆である。この映画の原イメージは、自らの戦争体験であるとしている。

こうして本多は一貫して「真正面から戦争、核兵器の怖ろしさ、愚かさを訴える」というドキュメントタッチの演出姿勢を貫き、作品に単に時勢に乗って作られた怪獣映画に終わらせない普遍性を持たせており、第五福竜丸の被爆事件のみならず菅井きん演じる婦人代議士や戦災遺族・孤児、疎開、警察予備隊から再編成された保安隊の登場など、随所に当時の時代背景を象徴するファクトを織り込んでいる。
当時は造船疑獄、犬養健法務大臣の指揮権発動などもあり、吉田茂内閣や政治への不信感が国民の間に高まっていた時代だった。助監督として参加した梶田興治によると、そうした時代背景からかゴジラが国会議事堂を破壊したシーンでは観客が立ち上がって拍手をしたという。

制作当時の東宝には戦後間もなく解体されて以来、「特殊技術課」がまだ正式に再発足しておらず、「特殊美術」のセクションもなかったため、美術監督の渡辺明ら美術スタッフは、本編美術の部屋を借りて作業していた。井上泰幸は新東宝から本作のために7月から参加したが、本作完成後には説得されて東宝のスタッフとなった。撮影初日にゴジラのぬいぐるみが重さに負けてひっくり返り、セットを踏み抜いたために初日から美術スタッフは徹夜となった。

劇中のゴジラの身長が、円谷の「和光ビルの時計台を壊そう」という意見から、「ビル街の上から頭が覗く」という理由で「50メートル」と設定されたため、これに合わせてミニチュアは25分の1スケールに統一された。東京の市街地の精巧なミニチュア群が作られたが、銀座のミニチュアの制作では当該ビルから図面の提供を受けられないことも多かったため、円谷は渡辺、井上、入江義夫、牧野金太郎ら美術スタッフとともにロケハンを行い、歩測して割り出した寸法をもとに井上と入江が図面を引いた。銀座のビルの上でのロケハンでは、円谷が「あそこのビルを燃やそうか」などと打ち合わせを行っていたため、警察官から不審尋問を受けている。

この銀座のミニチュアは、実景写真と見比べながら寸分違わないよう1か月ほどかけて制作された。美術スタッフには、当時美大生だった成田亨もアルバイトで参加し、ミニチュアのビルの製作などを担当しているが、当初は彼ら美大のアルバイトや出入りの石膏屋が図面を見ずに作っていたため、縮尺がばらばらになってしまった。美術監督の渡辺はこれに怒り、図面通りに全部やり直させている。市街地のミニチュアがほぼ完成した頃、円谷が「もう少し生活感がほしい」と要望したため、カメラマンの有川の発案で糸ヒューズを使って都電や電信柱の電線を張り巡らせることとなった。
すでにスタッフは手一杯だったので有川ら撮影班が作業に駆り出されたが、撮影に入ると照明の熱でヒューズ線が伸びてしまい、張り替えの連続だったという。

こうして本作用に作られたミニチュアの総数は、当時の映画技術誌での発表によると、「建物500軒」「戦車10台」「大砲10門」「飛行機50機」「テレビ塔・高圧送電塔10基」「船舶20隻」「自動車18台」と膨大なものだった。本作の制作時にはまだ東宝に特撮専用のステージはなく、不十分な広さを補うために町並みのセットにはパースをつけ、手前から奥へ向かって徐々に低く造られた。「松坂屋」のセットも同様である。

国会議事堂の破壊シーンでは、実物がゴジラと同じ高さ(50メートル)なので、ゴジラの巨大さを表現するため、33分の1に縮小したミニチュアが作られた。ゴジラの壊す日本劇場のミニチュアには、スタッフのお遊びで、『美女とゴジラ』と題した映画看板がかけられている。銀座和光ビルの時計塔は本番でうまく壊れなかったため、作り直して再撮影を行っている。

ゴジラの吐く「白熱光」で溶け落ちる高圧鉄塔について、井上泰幸らは「円谷監督の指示で、蝋を用いて作った」と語っているが、有川は「使ったのは鉛で、蝋や飴で作ったとか、なんでそんな話になってるのかわからない」と語っており、美術スタッフと撮影スタッフで証言が食い違っている。なお、本多は「蝋と鉛を混ぜて作った」と語っている。

ゴジラの足跡で発見されたトリロバイトは、美術スタッフによってゴム製の5寸サイズのミニチュアが用意された。八ツ山橋付近でゴジラの足に衝突してきた国鉄EF58形電気機関車の模型は、交通博物館から借りたものである。東京湾でゴジラを追撃する戦闘機は、F-86F セイバー。2尺サイズの木製ミニチュアが数機作られている。
戦車隊は、M4中戦車およびM24軽戦車の2尺サイズの模型が使われた。円谷が「モーター類では一番強い」として買いそろえておいたジューサーミキサーのモーターを内蔵しており、人間を乗せて走れるほどしっかりしたものが作られた。方向転換などはできず、ピアノ線で引っ張ってこれを行った。発砲カットは、実際の火薬発火にマズルフラッシュと照り返しを作画合成し、白抜けのフィルムを挟むことで強調する演出が採られている。

エピソード
映画で燃やされた銀座松坂屋の社長は「縁起でもない」と激怒した
作品中に登場する「大戸島」のシーンは三重県鳥羽市の石鏡町(いじかちょう)で撮影された。石鏡町は住民のほとんどが漁師や海女の仕事に従事する戸数200戸余り(当時)の小さな漁村であり、ゴジラの出現・フリゲート艦隊の航行・オキシジェン・デストロイヤーを使用するための潜水といったシーンの撮影がここで行われた。
伊勢志摩は『伊勢志摩』(1949年、東宝教育映画)や『青い真珠』(1951年、東宝)の両作品で監督を務めた本多にとっては馴染みのあるロケ地だった。この本多班の撮影中、同じ鳥羽の神島では『栄光の影に』の製作が中止となった谷口千吉監督が『潮騒』を撮影していた。

本作品の中では「島」とされているが、実際の石鏡町は島ではない。ただし、助監督として参加した梶田興治によると撮影当時の石鏡町周辺は幹線道路をはじめとする陸の交通網が未だ整備されておらず、鳥羽市街から船で2時間もかけて撮影機材を運び込むような「陸の孤島」だった。この石鏡町でのロケでは「ゴジラが出た!」と半鐘が鳴り大戸島の島民らが逃げ惑うシーンで約300人の地元住民(当時の町の人口の約4分の1)が日当600円でエキストラとして起用され、普段の漁師や海女の服装のまま撮影に参加している。

作品中でゴジラは大戸島に古くから言い伝わる伝説の巨大な海の怪物として描かれているが、石鏡町を含む志摩地方には「海には人を誘惑して海底へ引きずり込み人命を奪うトモカズキ、人の尻から生肝を抜き取る尻コボシなどの魔物が潜んでいる」という古くからの言い伝えがある。そのため、石鏡町の海女たちは2019年現在もこうした海の魔物を退散させるための魔除けとしてドーマン・セーマンの入った磯着や手拭・道具を身につけ、または携えて海に潜っている。このように石鏡町では昔ながらの古俗がよく残されており、住民らの魔除け信仰を示す「蘇民将来子孫家のお札」も町の随所に立てられている。

石鏡町でのロケは過酷なものだった。町には平地がほとんどなく、海岸からいきなり山の斜面が続くリアス式海岸独特の起伏に富んだ地形であるためロケ隊は真夏の炎天下に重い撮影機材や荷物を持って急な坂の多い未舗装の山道を登り降りすることを強いられて、疲労のため日射病に罹る者が続出する事態となった。
エキストラとして撮影に参加していた現地住民らはそれを見かねてロケ隊の荷物を持ったり撮影機材を運んだりして手助けしてくれたため、苦労していた俳優やスタッフは感激して住民らに深く感謝した。こうした光景を目にした監督の本多猪四郎は、「こんなに親切な人々が暮らす集落をゴジラが襲って破壊することにしているんですからね」と嘆いている。

本作品で山根博士役を演じた志村喬もロケについて「石鏡の集落には旅館などの宿がないので、ぼくらは毎日、鳥羽から1時間半くらい海上保安庁の船に揺られて石鏡に通っているのですが、船酔いと日射病で毎日数名の女優さん方が倒れています。石鏡の港に船が着いたら、今度はそこから撮影場所の山頂まで急勾配の坂道を1時間くらい登っていかなくてはいけない。ようやく山頂にたどり着いた頃にはみんなヘトヘトでね、とても撮影どころじゃないです。なるほど、こんな秘境ならゴジラが出てきても何もおかしくはないなと妙に納得しましたよ」と語っている。

石鏡ロケではゴジラが大戸島に上陸して姿を現し、それを目撃した島民と調査団一行が恐怖のあまり逃げ惑うというシーンの撮影がメインだったため、突如として巨大な怪物が目の前に出現したと想像した上で演技をしてもらう必要があった。そのため、エキストラとして参加した住民らにもゴジラとはいかなるものかについてスタッフが詳しく説明を行い「あそこの山の尾根の向こうから、ゴジラが顔をのぞかせるんです」と言っても、住民らはみんな「そんな馬鹿な」と笑うばかりで誰も話を信じてくれない。そこを何とか説得し、俳優・エキストラがひとしきり山道を駆け回って撮影を終えた。それでもやはり、年に1 - 2回、町の小学校の校庭で開かれる巡回映画会でしか映画に接したことがない住民らはどうしても納得がいかず「そのゴジラとやらはここにいないのに、どうして撮影することができるのか?」と助監督の梶田興治を質問攻めにしたため、返答に窮した梶田が困り果てるという一幕もあった。

ゴジラを一度も見たことがなく、また実際には目の前にもいないためにそのイメージをよく掴みにくいことは、本作品に出演した俳優陣にとっても大きな問題だったと宝田明は語っている。作品の本編を担当するA班と特撮を担当するB班はそれぞれ別々に撮影を進めていたため宝田などA班に所属する俳優らは実物のゴジラを見たことがなく、彼らにとってもゴジラは謎の存在だった。そして、謎の存在のまま撮影はどんどん進行していく。目の前にいないゴジラを相手にしてリアリティのある演技をするため、宝田はゴジラの絵コンテを見てイメージを膨らませ、「ゴジラは東京駅前の丸ビルと同じくらいの高さだ」と聞かされたことからゴジラの顔はこの辺りかと想像しながら視線の位置を定めるといった試行錯誤を積み重ねた。宝田が初めて実物のゴジラと対面したとき、すでに撮影は後半に入っていたと言う。

大戸島の神社での神楽のシーンは、鳥羽の賀多神社での神楽をそのまま撮影した。天狗の面や踊りの奉納などもすべて現地のもので、伊福部の作曲した神楽のみが架空のものである。大戸島の破壊された集落のシーンは世田谷区砧のオープンセットで撮影された。山根博士らの調査団を取り巻く村人は、50人余りの東宝の大部屋俳優らが演じている。石鏡町での撮影には合成シーンが多いため、円谷英二も立ち会った。

ロケが行われてからちょうど60年が経過した2014年8月現在、石鏡町でゴジラとのつながりを示すものは鳥羽磯部漁業協同組合石鏡支所の事務所前に置かれているゴジラの顔出しパネルしかない。また、本作品でゴジラが巨大な足跡を残していった大木の浜(おおぎのはま)もロケ当時の姿とほとんど変わることなく海女たちの仕事の場となっている。

ゴジラの主要襲撃地点は小笠原諸島の大戸島(架空の島)、東京特別区。2度目の襲撃時のルートは、芝浦岸壁 - 札の辻 - 田町駅前 - 新橋 - 銀座尾張町 - 銀座4丁目(松坂屋)
- 数寄屋橋 - 国会議事堂 - 平河町 - 上野 - 浅草 - 隅田川 - 勝鬨橋 - 東京湾(ただし、上野から浅草を経て隅田川まで達する場面は劇中にはなく、テレビの実況アナウンサーの台詞で処理されている)。

ゴジラが劇中で銀座和光ビルの時計塔を壊すシーンがあるが、梶田興治によると、和光本社はこれに激怒し、以後2年間ほどは東宝の一切のロケ使用を許可しなかったそうである。
梶田によると映画を観た後、本当に銀座和光ビルが壊されたかどうか、確かめに来る人たちがいたという。また、ゴジラの白熱光で炎上する松坂屋の社長は、「縁起でもない」と怒り狂ったという。「キングコング対ゴジラ」のオーディオ・コメンタリーによればこの件でしばらく銀座出入り禁止になったらしい。

大戸島の台風のシーンでは、本作のために作られた、トラックのエンジンにセスナのプロペラをつけた特製の大型扇風機が使われている。合成シーンで使われたオプチカル・プリンターは、円谷が戦前に自作した手動式のものだった。合成技師の向山宏によると、「旧式だが使いやすかった」という。
ゴジラが初めて出現するシーンなどの合成は、カメラレンズに黒紙のマスクを張って現場でマスク処理する「生合成」だった。
白黒映画で鮮明な画面となる「生合成」は、非常に熟練を必要とする、ベテランの向山ならではの技法であり、向山は一度フィルムが引っ掛かって失敗した以外、すべて成功させて見事な合成画面を実現させている。

自衛隊、海上保安庁に対しては、担当各庁に脚本閲覧の元に全面協力を得たが、自衛隊が映画に協力したのは本作が初めてのことである。
鳥羽ロケでは海上保安庁の「こうづ」「こたか」「愛知丸」の巡視船が撮影に協力している。この五ヶ所湾でのロケでは、海中撮影のために本職のサルベージ会社が協力したが、このサルベージ会社の係員がうっかり送気ポンプの操作を誤り、水中撮影中の逢沢譲カメラマンが窒息しかけるアクシデントがあった。この真夏の海上ロケで、巡視船の上で上半身裸で撮影に臨んでいた本多は、日焼けしすぎて背中に水ぶくれができてしまった。

劇中、テレビ塔でゴジラの実況中継をするアナウンサー役の橘正晃は、汗に濡れた顔の表現をするために自らの発案でオリーブ・オイルを顔に塗り、目の前で火をたいて演技している。

クライマックスで芹沢らが着る潜水服は、オレンジ色だった。真夏の8月の炎天下での撮影であり、芹沢博士、尾形役の平田・宝田両人は船上での演技のみであったため「まるで溶鉱炉の中にいるようでした」とコメントしている。

宣伝部、営業部によって、製菓会社「森永製菓」、オートバイ会社「キャブトン」、電機会社「ユタカ電機製作所」、音響機器会社「オンキヨー」とのタイアップが行われた。社名や製品を作品内に登場させる見返りに、前売り券をさばいてもらった。

ゴジラの死が明確に描写された作品は、本作と『ゴジラvsデストロイア』(1995年)の2作品のみである。また、人類自身の手でゴジラを葬り去ったのは本作だけである。
ゴジラを倒す芹沢博士役の平田昭彦は『大怪獣バラン』ではバランを特殊火薬で倒した藤村博士、『ウルトラマン』ではウルトラマンでも倒せなかったゼットンを無重力爆弾で倒した岩本博士役と本作以降も怪獣を兵器で一撃で倒す役柄を演じている。

のちに大橋史典はオリジナル怪獣『アゴン』を作った際、東宝から「ゴジラの盗作である」として訴えられた。しかし、本作の造形に携わっていたということで、これは取り下げられたそうである。

本作は『原子怪獣現わる』(1953年)から強い影響を受けている。例えば、本作の制作段階の仮題『海底二万哩から来た大怪獣』は『原子怪獣現わる』の原題『The Beast from 20,000 Fathoms』と酷似している。また、「核実験で目覚めた怪獣(恐竜)が都市を襲撃するが、架空の兵器で倒される」大筋もよく似ている。
また、一時期は『原子怪獣現わる』の怪獣「リドサウルス」が、「放射能性の炎」を吐くことが検討されたものの予算の関係で却下されたが、ゴジラの放射火炎(放射熱線)に影響を与えたのではないかとする説もある





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