直線上に配置

円谷英二的日本特撮映画史



吸血鬼ゴケミドロ
★★★★

1968年(昭43)8月14日公開/松竹/84分
総天然色/シネマスコープ
 
製作 猪股尭 脚本 高久進
佐藤肇
 監督 佐藤肇
撮影 平瀬静雄 音楽 菊池俊輔  美術 芳野尹孝
 特撮監督 小嶋伸介  - - - -
協力  ピー・プロダクション (うしおそうじ・渡辺善夫) - -
出演-吉田輝雄・佐藤友美・高英男・金子信雄・高橋昌也・北村英三・加藤和夫・山本紀彦


「宇宙大怪獣ギララ」の約一年後に公開された松竹製怪奇パニック映画。
同時上映は美輪明宏主演、深作欣二監督「黒蜥蜴」。妖艶と怪奇の艶めかしい二本立て興行。
8/14封切りということで真夏の夜、怖いもの見たさに結構客は入ったのではないだろうか。

映画は少人数パニック物で5年前に公開された東宝の「マタンゴ」によく似ている。
ただし、「キイハンター」を演出していた東映の監督らしく、内容はよりどぎつく、低俗であり、アクション性も高い。
C・タラティー監督が大好きなのも頷ける。
監督佐藤肇は前年公開「海底大戦争」の監督もしている。

ゴケミドロ役の高英男が良い。
石井輝男監督からの紹介なのか、美輪明宏に対抗したバイ的匂いプンプンさがたまらない。
金子信雄や北村英三の悪者役もハマっている。

特撮に関しては、冒頭の旅客機不時着シーンがよく出来ている。
この映画、旅客機一機を丸々オープンセットに作り込んでいる。

ラストが今ひとつではあるが、東宝怪奇物とは違う、赤い空と赤い血と裂傷のイメージ満載のカルト映画だった。


以下Wikiより転載

---------------------------------------------------------------------------------------------------------

松竹が前年の『宇宙大怪獣ギララ』に続いて制作した、松竹特撮映画作品の第2弾。
松竹京都太秦撮影所制作の「お盆興行」作品であると同時に、侵略テーマ、
人類破滅テーマの本格的なSF映画であり、緊迫した人間関係を描く全編を悲観的な雰囲気が覆う。

日本公開時には全年齢で適しており、年齢制限はなかったが、アメリカ合衆国公開時にはR指定を受けている。
映画監督のクエンティン・タランティーノも本作の大ファンであることを公言しており、日本のスタジオで撮影された映画『キル・ビル』には、本作で全編にわたって使われた「真っ赤な空」が彼の意向により、オマージュとして採り入れられている。

本作の企画は、前年の1967年にピー・プロダクションが企画したテレビ特撮シリーズ『ゴケミドロ』が元になっている。
内容は、地球に不時着したUFOに乗っていた人間に乗り移れる善玉の宇宙人と、その機内食料だったが野性に還り凶暴化した宇宙生物「ゴケミドロ」との戦いを描いたもので、原案・脚本はうしおそうじが担当した。
この企画を基に、高山良策によるゴケミドロのぬいぐるみが三浦半島の剣崎洞窟でうろつくというパイロットフィルムが、ピープロで製作された。ここでのゴケミドロは、両腕の他に胸からもう1本の腕が生えた、毛むくじゃらの怪物だった。うしおがこのパイロットフィルムであちこちに売り込みをかけているうちに、松竹から「ぜひうちで」と声がかかり、映画化となった。だが、上述したように映画化の際に内容は一新されている。映画が製作開始された頃、うしおが新幹線で京都へ向かっているときに、東京12チャンネルのプロデューサーとたまたま席が向かい合わせになった。そのプロデューサーはうしおが『ゴケミドロ』の原作者とは知らずに、「松竹で今度やる『ゴケミドロ』って変な題名の映画、あれ一体何のことでしょうね」と話しかけてきて、うしおは笑いをこらえていたそうである。

脚本を担当した小林久三(当時、松竹の脚本部員だった)によれば、ピープロの持ち込んだ企画には既に『ゴケミドロ』というタイトルが付いており、人間の10本の指に目ができ、それによって起こる奇怪な現象を特撮で表現するという内容であったという。企画の担当窓口は本作のプロデューサーを務めることになる猪股尭であったが、当時の彼は深作欣二が松竹で撮る『黒蜥蜴』(主演は丸山明宏)の併映作品の企画を探していた。当の本人は「指に目がある」というアイディアは「お子さま向けのマンガの材料にしかならない」(原文ママ)と感じたという。むしろ恐怖映画なら、と小林は提案すると猪股は「監督は誰がいいか?」と聞いてきた。そこで小林は、『散歩する霊柩車』や『怪談せむし男』を撮っていた東映の佐藤肇を推薦した。

共同脚本の高久進は、テレビドラマ『キイハンター』で佐藤とコンビを組んでいた関係から、参加した。打ち合わせの結果、ピープロの企画は破棄されたが、怪獣ものではないSF風の作品にするということで、佐藤と高久の意見は一致していた。3人は旅館に籠もり、脚本を執筆することになった。

ゴケミドロに襲われた人間の額が割れるアイディアは、フレドリック・ブラウンのSF小説『73光年の妖怪』を元にした。
提案したのは高久であるという。当初は東北地方の寒村の精神病院に、目に見えない宇宙生物が飛来してくる設定を考えていたそうだが、これは同じく精神病院を舞台にしたアメリカの恐怖映画『蛇の穴』からインスパイアされたものだという。
舞台の冒頭を旅客機にしたのは佐藤である。『蛇の穴』のアイディアが出た翌日の早朝、佐藤は高久や小林に以下のようなアイディアを話した。
「旅客機の窓に、ぴたっぴたっとひかりゴケのようなものが付着する。すると、旅客機は操縦不能になって、山中に不時着する。血を主食にする宇宙生命体は、人間を宿主にして、生き残った乗客を次々に襲い出す……」

こうして、本作の世界観が確定したのである。

特撮はピープロが担当している。ゴケミドロの円盤はそのまま、ピープロの特撮テレビドラマ『宇宙猿人ゴリ』(フジテレビ)のゴリ博士の円盤に流用されている。吸血鬼の割れた額から流れ出る宇宙生物の素材には、コンドームが使われた。

「ゴケミドロ」の名の由来は、パイロットフィルムを制作したうしおそうじが京都でよく立ち寄るという「西芳寺」(苔寺=こけでら)と、「個人的に興味があった」という「深泥池」(みどろいけ)から着想した造語で、当初は「コケミドロ」としたが、興行で「こける」は禁句なので、濁点を着けて「ゴケミドロ」としたものである。

一方、松竹映画として公開される際には、松竹宣伝課によって「吸血鬼ゴケミドロとは何か?」と題し、「『ゴ・ケミ・ドロ』とは、三つの言葉が合成されて出来た言葉」とする説明文が各種宣材に添えられた。こちらの文ではうしおの命名から大きく設定を拡げ、「ゴ」は「キリスト処刑で有名なゴルゴダの丘から採った、頭蓋骨を意味する言葉」で、「ケミ」は「ケミカルつまり、科学的処置を受けたという意味の略」、「ドロ」は「アンドロイドから採った言葉」としており、「SFの世界で宇宙の天体QXに生息する頭骨だけが異常に発達した“人間もどき”が特殊の科学的処置の洗礼を浴びて、水銀状の知性体に化したものが、このゴケミドロの正体なのです」「この水銀状の血を吸って生きる高等生物は、彼らの食糧(血)が減少したため、新たな食糧源を地球に求めてやって来た」と説明している。

本作のラストでの「青い地球がやがて茶色く変色していく」というシーンについて、監督の佐藤は「人類滅亡」のイメージを込めたという。

ゴケミドロに乗り移られた殺し屋役を演じた高英男はシャンソン歌手であって俳優ではないが、脚本での「灰となって風に散る」という役柄の最期が気に入り、吸血鬼の役を引き受けた。しかし、完成フィルムではその最期の描写を高橋昌也に取られる形に変更されたため、非常に不本意だったという。また、本作に出演した後しばらくは、町で子供たちから「ゴケミドロだ!」と言われて怖がられたそうである。なお、劇場用パンフレットには付録として、顔の左半分が白骨化したようなポスターイメージの高のイラスト画の紙製お面がついていた。

------------------------------------------------------------------------------------------------------------

高 英男(こう ひでお、本名:吉田 英男、1918年10月9日 - 2009年5月4日)は、樺太(現・サハリン)出身の日本の歌手、俳優。
日本におけるシャンソン音楽普及の第一人者であり、フランス国内でも活躍。独自のムードを醸し出す歌手・俳優として知られた。


大正7年(1918年)10月9日、樺太泊居町で生まれる。
11歳のとき、勉学のために樺太から単身東京へ出され、下谷の従弟のもとに身を寄せる。吉田の家が、浅草でも知られた顔だったため、映画・舞台を自由に見て回れた。
本人曰く「《樺太の自然児》として育った子供が、急に人と人の関係が複雑な芸能界のウラみたいなトコで過ごすようになっちゃったんだから、こりゃあ変な男が出来ないはずがないですよ(笑)」

父親は医者にさせたく獨逸学協会学校中等部入学、卒業後武蔵野音楽学校へ進学。同級に木下忠司、大谷冽子がいる。入学後、先輩の紹介で、ディナ・ノタルジャコモにベルカント唱法を習う。
昭和11年(1936年)、初舞台。ソロで3曲歌う。またその頃、コーラスグループ「コーロエーコー」に入団。最年少団員だった(なお最年長は東海林太郎)。
武蔵野音楽学校入学後、一年強で日本大学へ転学。当時既に歌で稼いでいたため、学校側がうるさく言ってきていたのと、徴兵を遅らせるため、当時殆ど無い音楽科がある日本大学へ移ったというのが真相である。
日本大学では、学生仲間でタンゴのバンドを結成し、ヴォーカルを担当。日大の後輩には、西村晃、三木のり平、小林桂樹などがいる。

昭和17年(1942年)、日本大学卒業。即、徴兵。大学出なので幹部候補生ということで少尉になるも、肺結核に罹り、即除隊。療養の傍ら、慰問に参加。
昭和20年(1945年)暮れにNHKの出演テストに合格、翌年よりNHK音楽番組に引っ張りだこ状態で出演。その頃、NHKで三浦環の最期の録音に偶然立ち会う。また、その頃葦原邦子との仕事がきっかけから中原淳一に目をかけられるようになり、中原プロデュースのもと売り出して行く事になる。演技の基礎は中原と交遊の深かった杉村春子から学んだという。

昭和26年(1951年)、フランス・パリへ留学。ソルボンヌ大学に学ぶ。
昭和27年(1952年)、帰国。帰朝リサイタルでは、フランスから持ち帰った『愛の讃歌』『ロマンス』『詩人の魂』などを日本人では初めて披露する。また、このときの中原淳一の発案で、日本人のシャンソン歌手第一号となる。昭和28年(1953年)、キングレコードから『枯葉/ロマンス』でレコードデビュー。またこの年、作曲家の中田喜直からの指名で『雪の降る町を』を吹き込む。その後も『詩人の魂』『セ・シ・ボン』『パダム・パダム』など、シャンソンを次々吹き込む一方、日本劇場等の舞台にも多く出演する。日劇では昭和56年の閉館まで、トップスター扱いでほぼ毎年出演し、活躍する。

昭和33年(1958年)、再びパリへ行き翌34年帰国。昭和36年(1961年)へ三度パリへ行き、大手プロダクションと8年間の長期契約を結んだ。そのため、1年のうちは10ヶ月はフランス、2ヶ月は日本で仕事というかたちを昭和44年(1969年)まで続け、日仏両国で精力的に活動する。パリではラジオのレギュラー番組も持ったほか、ジョゼフ・コスマやダミアなどとも親交を結び、多くの大劇場に出演しトリを飾るなどしている。
昭和49年(1974年)に再起リサイタルを自身の憧れであった帝国劇場で行い大盛況を収める。以後、帝劇では五年連続でリサイタルを行い、いずれも大盛況を収めている。
昭和52年(1977年)から昭和61年(1986年)まで日本歌手協会理事を務める。
昭和57年(1982年)、国立劇場でポピュラー歌手としては初のワンマンショウ開催。なお、国立劇場では昭和62年(1987年)にも大劇場でリサイタルを行っている。

昭和60年(1985年)、63年(1988年)と心筋梗塞で倒れ大手術を受けるも奇跡的に回復し復帰している。またこの頃から平成5年(1993年)頃まで、淡谷のり子とジョイントショーを度々開催。
平成元年(1989年)、紫綬褒章受章。
平成3年(1991年)、日本シャンソン協会設立時には淡谷のり子と共に名誉顧問就任。
平成4年(1992年)、フランス芸術文化勲章シュバリエ章受章。
平成7年(1995年)、勲四等旭日小綬章受章。
平成8年(1996年)、歌手生活六十周年記念リサイタル開催。

生涯を通じ、結核、狭心症、心筋梗塞…の病魔に襲われ、晩年は老衰から歩行困難となるなど、健康状態は決して良好では無かったが、その影を全く感じさせない華やかなステージを繰り広げ、晩年も自身の老いを逆手に取るような飄々としたトークで聴衆を沸かせ続けた。その姿は「まさに歌が命を支えている」と永六輔から評されている。

平成15年(2003年)ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で出演作『ゴケミドロ』の上映に参加、クロージングセレモニーにて「雪の降る町を」を熱唱。
平成21年(2009年)5月4日午前9時40分、肺炎のため死去。90歳。

エピソード
日本で初めてシャンソン歌手を名乗った人物であるため、日本のシャンソン歌手第1号と呼ばれている。
持ち歌はシャンソンに限らず、タンゴやポピュラー曲、オリジナルの流行歌と幅広く手掛け、日本の舶来音楽普及に尽力し続けた。またシャンソンでも文学的香りのするものからコミカルなものまでシャンソンの種類でも幅広く手掛けており、日本ではあまり歌いこなせる人が多くないシャンソン・ファンテジストと呼ばれるコミカルな楽曲も得意としていた。

舞台化粧は男性版宝塚を想定した、濃淡の濃い化粧をしていたことでも知られる。化粧をした日本人初の男性歌手と言われているが本人は否定(浅草オペラ出身の田谷力三が先にいた)、「みんな多かれ少なかれやっていたよ」と語っている。

個性を買われ、俳優として石井輝男作品にギャング役などで多数出演。また宇宙人に憑依される凄腕殺人スナイパーを演じた「吸血鬼ゴケミドロ」は、海外でも公開された。なお、本人は現実離れしたこの手の役を喜んで演っている。
公開当時、「吸血鬼ゴケミドロ」の併映作品は「黒蜥蜴」であり、美輪と高が楽屋であったときに「何、女演ってんだい」「な~に、そっちこそ、オバケ演っちゃって~」と言い合ったそうである。

主な出演映画
「ギャング対ギャング」(昭和37年・東映 石井輝男) - 塚原 役
「十一人のギャング」(昭和38年・東映 石井輝男) - 広岡 役
「柳生武芸帳 片目水月の剣」(昭和38年・東映 長谷川安人) - 時田采女 役
「大悪党作戦」(昭和41年・松竹 石井輝男) - 轟一郎 役
「吸血鬼ゴケミドロ」(昭和43年・松竹 佐藤肇) - 寺岡博文 役
「やくざ刑罰史 私刑」(昭和44年・東映 石井輝男) - 田口 役
「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」(昭和44年・東映 石井輝男) - 監守 役




TOP

弊社の配信するコンテンツ・動画等の整合性・信頼性に関しては万全を期しておりますが、
それにより生じた損害に対しては一切 の保証を負いかねます。
弊社が提供するコンテンツを無断で複製すると、著作権侵害となります。
Copyright (C) 2020, zeicompany. All rights reserved.
Free to Link
直線上に配置