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円谷英二的日本特撮映画史



大怪獣ガメラ ★★★★
1965年(昭40)11月27日公開/大映東京/78分/
モノクロ/ワイドスクリーン
 
企画 斎藤米二郎 脚本 高橋二三  監督 湯浅憲明
撮影 宗川信夫 音楽 山内正  美術 井上章
 特殊撮影 築地米三郎  美術 井上章 照明 石坂守
合成  藤井和文 助監督  石田潔 製作主任 川村清
 操演  関谷治雄  ガメラ・ミニチュア制作
操演
八木正夫
村瀬継蔵
三上陸男
鈴木昶
 -  -
出演-船越英二・山下洵一郎・霧立はるみ・北原義郎・姿美千子・内田喜郎・浜村純・左卜全・吉田義夫

大映初の本格的怪獣映画。

モノクロ映画ではあるが、その迫力は東宝の怪獣映画を凌ぐほど。
巨大亀である「ガメラ」の造形が素晴らしい。編集で頻繁に出てくるその顔のアップ、甲羅、尻尾などのアップ。炎を噴出して空を飛ぶその奇想天外な発想。当方に負けてなるものかという気概が画面にあふれている。

また爆破シーンが良い。東宝の爆破とは異なる、圧倒的に大きさと炎や黒煙の使い方。ミニチュアも、ビルの中を逃げるシエルエットの描写など細かい。

ガメラが炎を吐くシーンも、それまでの東宝だと頭部のみのギニョールで処理されるのが普通だったが、この映画では人間の入ったぬいぐるみ本体の口から、本物の炎が直接出ている。これには東宝特撮陣も吃驚したのではないだろうか。

子供を物語に絡めるために、ストーリーに少々強引さはあるが、円谷特撮ではない、大映東京撮影所の底力を見せつけた、記念碑的な映画となった。

以下wIKIより転載

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本作の公開当時、特撮を駆使して巨大な怪獣を描く「怪獣映画」は、特技監督に円谷英二を擁する東宝の独擅場だった。
すでにSF映画『宇宙人東京に現わる』(1956年)や、『釈迦』(1961年)、『鯨神』や『秦・始皇帝』(1962年)といった大作の特撮映画を製作していた大映は、自社でも「怪獣映画」を製作すべく、前々年の1963年に、巨大化したネズミが群れをなして東京を襲うというプロットでSFパニック映画『大群獣ネズラ』を企画した。しかし、この作品は撮影のために大量に集められたネズミからノミやダニなどが発生するなど、深刻な衛生上の問題を引き起こしたために撮影は中断され、そのまま制作中止になった。

このため、次なる怪獣映画企画として、大映社長の永田雅一の声がかりで本作が製作されることとなった。その後ガメラ映画は1971年に大映が倒産するまでに計7作制作された。

プロデューサーの斉藤米二郎によると、永田が「大映にも優秀な特撮マンがいるんだから、東宝の『ゴジラ』に負けずになんかやらなきゃいけない」と意気込み、総勢45、6人いた社内プロデューサー全員に1人1本づつ怪獣映画のプロットを提出するよう社長命令を下し、ここから「新しい怪獣映画」の企画が始まったという。
湯浅は、「(前年の『大群獣ネズラ』で)人が入ったぬいぐるみのネズミがうまく動いていたので、1匹で活躍する怪獣映画をやろうということになったのです」と述べている。

この企画は斉藤と脚本家の高橋二三によって『火喰い亀 東京襲撃』と仮題され、高橋によってプロットが執筆された。斉藤から「怪獣映画はお好きですか?」と電話を受けた高橋は、「俺に書けないものはない」とこれを引き受けたと語っている。
高橋によると「亀を飛ばす」という案がまず最初にあって、ガメラ自体のデザインも何も決まっていなかった。高橋はネズミ花火のイメージから「回転して飛ぶ亀」のアイディアを出して「ジェット噴射」に進み、「火をエネルギーとする」というキャラクターを構築していったという。

本編監督は、これが監督第2作となる湯浅憲明。湯浅によれば、大映は特撮部門と本編部門の相性が悪く、企画時には「東宝の円谷によるゴジラ映画に対抗し、怪獣映画を製作すること自体が暴挙に近い」という受け取られ方だったという。
そのため、だれもこの映画の監督を引き受けたがらなかった。湯浅は前年暮れに公開された監督デビュー作の音楽映画『幸せなら手を叩こう』の興行的失敗があり、「こうした立場から自分に監督が回ってきたのだろう」と述べていて、中には「こんなものやったら命取りだよ」などと言う先輩監督もいたという。
新人監督である湯浅を推薦したのは斉藤だった。斉藤によると、「特撮経験豊かな湯浅しかいないだろう」との理由だったという。湯浅は「クランクインするまでが大変だった。慣れない絵コンテを描いて、撮入までには1か月ほどかかった。」と語っている。

特撮監督は築地米三郎。築地は大映で特撮監督を務めてきたベテランで、企画頓挫した『大群獣ネズラ』の企画発案者でもあり、大ヒットしたこの『大怪獣ガメラ』を指して、「『ネズラ』はテストまでして会社に損させましたけど、『大怪獣ガメラ』では儲けさせましたからね。僕にとっては名誉挽回です。」とコメントしている。
築地のもとに本社から「亀の化け物を出せ」と指示が来たのは、脚本もまだできていない時点であり、すぐに築地は美術担当の井上章に、ガメラのプロポーション画を4枚ほど描かせて検討に入ったという。

やがて高橋によって脚本は脱稿したが、湯浅は脚本を読んでもイメージがわかず、師匠の井上梅次に相談したところ、「アホ、こんなもん一番やさしいわ、演出やない、計算さえ出来たらだれでも出来るわ。特撮映画は計算や。計算でけへんもんに映画は出来ん!」と一喝された。
湯浅はこの意見を受け、一般映画とは全く違う特撮映画の予算組みを把握するために撮入前の現像所に通い、フィルム合成やミニチュア制作など特撮予算のイロハからまず研究した。
この合成技術の指導には、東宝の特殊技術課のスタッフにも師事したという。円谷は、いわば「抜け駆け」である弟子たちのこの行為を完全黙認していた。なお、ちどり丸の前を逃げまどう人々などは実写ではなくアニメーションで描かれている。

本社で「B級予算」が組まれ、10月ごろには撮入となったが、大映本社側はカラーでの製作をしつこく現場に迫ったという。しかし、築地が白黒での製作を主張したため、結局は白黒作品となった。この理由について築地は「まず予算的な問題と人員不足。それと設備的な問題として高速度撮影用のカメラが無かったこと。」を挙げており、「技術的に無理である」として会社を説得したという。

こうして工夫と苦労を重ねてついに完成を迎えたが、画をつないだだけの「総ラッシュ」の試写では撮影所長ができあがりに不安になり、途中で抜け出す有様だった。さらに本社で永田や重役が立ち会う中で完成試写が行われた際には、撮影所長は永田の怒りを恐れて「えらいこっちゃ」と逃げ出してしまった。
しかし、試写終了後に永田が一言「おもろいやないか!」と絶賛したため、重役たちも「いやあ、オモロイですな〜」と一斉に社長になびき、これを見て監督以下スタッフは胸を撫でおろしたという。これには湯浅も「まるで喜劇ですよ」と苦笑している。

こうして完成した本作は永田雅一の息子である永田秀雅によると、営業部では「所詮はゴジラの二番煎じ」と興行を危ぶむ声が主流だったという。しかし予告編が劇場に流れると、前売り券の売り上げが急上昇。封切り公開されるや大ヒットとなり、ガメラは次作『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』で再登場、ガメラの主演映画は一躍大映のドル箱シリーズとなっていった。

ガメラの外見モデルについては諸説あり、
大映社長の永田雅一が飛行機に乗っていて見つけた亀形の島、または空飛ぶ亀の幻影。
大映東京撮影所近くの神社にいた、女性が参拝すると姿を見せる「スケベガメ」という愛称の亀。
ピー・プロダクション社長のうしおそうじが、1962年に企画した特撮テレビ番組『STOPシリーズ』のデモフィルムに登場する巨大な亀。

などがあるが、湯浅憲明自身は脚本担当の「高橋二三のアイディアだろう」としている。
一方、高橋は「永田社長が『亀の怪獣を飛ばせ!』と指示を出したと聞いた」と語っている。
ピープロのデモフィルムに登場する「巨大亀」は手足を引っ込め、火を噴きだして空を飛ぶというものだった。うしおは後年、「大映にもこのデモフィルムを見せたから、どう考えてもガメラはこれを参考にしたと思う」と語っている。この件についてうしおが築地米三郎に問いただしたところ、「いや断じて違う、あれはジュニア(永田秀雅専務)のアイディアだ」と返答されたという。
企画者でもある斉藤米二郎は、「銀座のキャバレーで長崎出身のホステスが話してくれた『長崎では海水浴していると、くるくる回りながら女の子に寄ってくるスケベな亀がいる』という逸話を基にした」と語っており、関係者それぞれの証言が食い違っていて、諸説紛々といった状況となっている。

「ガメラ」の名付け親は、大映社長の永田雅一である。当初、プロデューサーの斉藤米二郎は本作の題名を『火喰い亀 東京襲撃』と仮題したが、肝心の怪獣の名前がどうにも思いつかなかった。これに永田が怒って「むこうがゴジラなら、こっちはガメラや!」と独断で命名すると、担当重役が「ゴジラにガメラでは似過ぎている」と反対するが、永田は「そんなことゆうてるから駄目なんや!」と一喝。結局、永田社長が怪獣「ガメラ」の命名者となった。
永田は「ガメラは哀愁がないといけない」、「子供たちが観て『怪獣がかわいそうだ』とか哀愁を感じないといけない、子供たちの共感を得ないとヒットしない」と主張していたといい、永田のこの意見には斉藤も感心したという。永田はまた斉藤を社長室に呼びつけて「ガメラを泣かせろ」と指示してきたため、斉藤は現場と板挟みになって大変だったと語っている。

ガメラのデザインは、1964年に大映から独立したばかりの八木正夫と、大映美術監督の井上章によるものである。井上は『ガメラ対大悪獣ギロン』までシリーズの美術を担当した。
井上は本作のガメラのデザイン画は50枚ほど描いたといい、そのなかには手足が無くムカデのようにはうガメラや、テントウムシのような水玉模様のガメラもあったという。結局は「画より立体のほうが分かりやすいだろう」ということで、井上が粘土製の1尺雛型モデルを制作し、ここでOKが出た。監督の湯浅憲明によると、幾度にもわたる検討に、井上は最後はノイローゼ気味だったという。

ガメラの身長は当時、東京のビルの高さが33メートルに規制されていたので、縮尺を33分の1に設定し、
ここから60メートルに決まった。湯浅監督は、ゴジラと差別化したガメラのキャラクター付けとして「動物らしさ」を強調し、四足歩行やアップの多用などの基本設定を考えた。劇中の東京タワーはガメラとの対比を考え、小さく作っている。

ガメラのぬいぐるみは、八木正夫によって製作された。八木によると、大映では怪獣の造形は初めてだったため、当初高山良策にガメラの製作依頼が持ち込まれたが、断られたために八木のもとに依頼が来たという。
八木は当時日本テレビで仕事をしており、定時退社後にガメラの造形にかかった。ちょうど日本テレビは労働争議で騒然としており、テレビ部長は「こちらで処理するから当分来なくていいよ」と計らってくれ、このおかげでガメラ製作に専念できたという。

当初、八木は自宅の一室の畳を上げてガメラのぬいぐるみを制作していた。やがて、大映から完成を急かされて八木1人ではまかなえなくなったため、父親である東宝特殊美術課の八木勘寿に造形依頼を持ち込んだが、大映と東宝間の五社協定があるため、結局は八木の自宅の庭に造形用のプレハブ小屋を建て、そこで八木正夫が中心となって製作することとなった。当時は東宝特美課に在籍していた村瀬継蔵も八木勘寿に頼まれ、2人で定時退社後にこれを手伝った。

ガメラの甲羅の鱗は、村瀬によって東宝特美課での技術を応用し、ドンゴロス(麻布)を細かく切ったものを混ぜて補強したラテックスを石膏型で型抜きし、作られた。八木勘寿は当時病身であったが、作業場に布団を持ち込み、この甲羅の型抜きの指導をしている。ガメラの口の開閉ギミックや電飾は鈴木昶が行った。

ガメラは回転して飛ぶ設定のため、湯浅らは「ガメラをどう飛ばすか」と頭を抱えたといい、回転して飛ぶ際に甲羅がペコペコではよじれるから」と、甲羅の芯にジュラルミンが入れられた。このため、ぬいぐるみは異常に重くなり、灯台襲撃のシーンでは台車に載せて引っ張らなければ撮影できなかったという。
撮影途中からは軽量化が図られて手直しされたが、胴体には鉄骨が組み込まれ、わざと手足が動かしにくいよう作られていたため、重さは60キログラムほどあったという。演技者は蓋のようになった甲羅を外し、中に入る仕組みだった。当初は甲羅の四隅をボルトで留める仕掛けだったが、危険なためにフックを使い、ボルト2個で留めるよう改良された。

円盤状になって空を飛ぶガメラは、3尺ほどのミニチュアが用意された。ミニチュアによる噴射火炎の色は、撮影時には赤色だった。このミニチュアは、点火して飛び上がるシーンでは毎回、噴射熱によりピアノ線が切れてしまった。築地は「もうちょっとというところでストーンと落ちる。本当にタイミングなんですよ。」と当時の苦労を語っている。ロングのカットではアニメーションが使用されたが、出来栄えと迫力から、これも湯浅の意見で次作からは遠近ともミニチュアを用いている。

ガメラ本体も、頭や手足の引っ込むものや遠景用のものなど、八木らによって大小さまざまなミニチュアが作られた。モーター仕込みで手足の動くミニチュアは、『対ジグラ』まで使われたという。

ガメラの演技者には当初、大学の重量挙げの選手を何人か呼んで充てたが、重量に伴う過酷さのために3日以上続く者がいなかった。結局、大道具係などから体力のある者が2人、交代で入って演じた。監督の湯浅憲明は「それでもぬいぐるみを着た役者さんに『監督、動けないよ』と言われて、途中から改良した」と語っている。この2人のうちの1人は、劇中にも地熱発電所所長役で出演している。

ガメラの鳴き声は、永田秀雅によると「セメントをこねる鉄板の上で、セメントがこびりついたところに、高下駄を履いて滑り込む」という手法で起こした音に、ガラスを引っ掻く音などを合成して作られた。
監督の湯浅憲明によると、これにさらにいろいろな動物の鳴き声を合成したという。永田専務によると、ガメラが笑う声、悲しい声、怒る声、そのすべてが別々で、「勝ち誇って嬉しい声が一番上等で、脚をやられた時はかわいそうな声、そういうのが大事なんですね」と語っている。

本作では、本編と特撮は湯浅憲明と築地米三郎ら両監督の分担扱いとなっているが、実際の現場では両監督が共同で特撮の演出を行っている。当時の大映としても湯浅自身としても、規模の大きな特撮を駆使した怪獣映画の制作は初のことであり、試行錯誤の連続だったという。
特撮映画にはもとより光学撮影やフィルム合成が欠かせないが、大映の撮影所には現像所がなく、オプティカル・プリンターは旧式で、フィルムの傷消しに使っていた程度でしかなく、合成の技術者すらいなかった。まだデビュー2作目の新人監督である湯浅は、ベテランのカメラマンから「お前に何がわかる!」と侮られ、毎日が喧嘩だったと述懐している。これには、監督が主導権を持っていた東宝の撮影所と異なり、大映の撮影所は東京も京都も伝統的にカメラマンが主導権を持っていたという背景があった。

こうした中、やがて撮影が遅れ始めた際には、心配した撮影所所長が個人的に「円谷特技プロに知り合いがいるから内緒で円谷監督を呼んでやるぞ、頼んだらどうだ?」と声をかけてきたという。しかし、湯浅は「それはできません!」と断ったといい、あくまで大映独自の特撮作品を創ろうと心に決め、これに臨んだ。とはいえ本作の撮影班は撮影所では「継子扱い」だったといい、周りでは誰も成功するとは思っていなかった。
特撮の撮影では莫大な照明量が必要となるが、セットがそもそも特撮に対応していないため、ライトをつけると電気の容量が足りず、本番では他のスタジオの電気を落としてもらった。しかし、「冗談じゃない、お前一人でやってんじゃねえ」と、湯浅は他の撮影班からさんざんに怒られたという。

当時、大映東京撮影所には大規模な特撮作品を制作するだけの人員も設備も不足しており、築地によるとミニチュアや造形物の技術者もおらず、東京市街や東京湾襲撃のシーンのコンビナートでは、写真を引き伸ばしてベニヤ板に貼り付けた「切り出し」の手法が採られている。
コンビナート襲撃シーンでは、本編部では石油タンクのそばでの撮影ということで火がたけず、特撮部では「切り出し」セットをごまかすために煙を多用ということで「あんまり派手にやらないでくれ」「十年早い」と双方の監督同士でもめたといい、両者の煙の調子を合わせるのがひと苦労だった。先述したように特撮スタジオ自体がもともと専門でなかったために排煙口が小さすぎて、特撮班でもコンビナート火災シーンの煙が充満して大変だったという。

また、予算も撮影期間も特撮怪獣映画としては十分ではなかったため、劇中での災害シーンは既存のニュース映像が多数流用されている。
東京タワーをガメラが押し倒す際にはガメラが手をかける前にミニチュアが倒れてしまい、ガメラの手のアップを別に撮って編集でごまかしたという。ビルなど建物のミニチュア制作は工作部のスタッフが担当したが、スタッフには宮大工出身者も含まれていたため、NGが出ると湯浅は怒鳴りつけられたという。「Zプラン」の火星ロケットのミニチュアは6尺サイズの巨大なものが用意され、発射シーンではスタジオの地面を掘り下げてセットを組んだ。

冒頭の北極のセットでは、大日本製氷社にしかなかった砕氷機を撮影所に持ち込み、前の晩に大型トラック3台分の氷をセットに敷きつめた。翌日、スタジオ内は巨大な冷蔵庫と化してしまい、スタッフも俳優も寒さと転倒の危険を押して撮影に挑んだ。北極シーンの撮影終了後、氷が解けるまで3日間ほどスタジオは使用できなかったという。
ガメラ出現シーンでは、対象物のない氷原のセットで井上章が3尺用のセットを組んだが、築地は「迫力が出ない」と6尺スケールで撮影したために井上と喧嘩になり、「監督、止めてくれ」と湯浅が呼ばれる騒ぎになったという。
結局、雪原のセットの横に6尺スケールのセットを作って寄りのカットなどを撮った。湯浅監督によると「スタッフ全員が怪獣映画は初めて」ということで、そこまで頭が回らなかったという。

ガメラが口から吐く火炎は、従来の東宝怪獣のような光学合成ではなく、実際に加圧したガソリンをプロパンガスで噴出して熱したニクロム線で着火した。実物の炎を使ったのは湯浅の意見だった。八木ら造形スタッフは当初、ガメラが火を吐くということを知らされておらず、演技者が入ったまま火を吐かせているのを見て驚いたという。
村瀬らは本物の火を使うということで、ガメラの口に石綿を貼り付けてラテックスを塗り、火炎放射の撮影ごとに塗り直して対処した。怪獣映画の撮影自体初体験である湯浅と築地の両監督以下、特撮スタッフはガメラが火を吐いただけで「出たよ!」と大喜びだったという。
ガメラが海上の炎の帯で伊豆大島に誘導されるシーンは、水面すれすれに設置した樋にガソリンを流して点火した。ガメラが炎を飲み込むカットは、フィルムの逆転で表現した。

当初は演技者が入ったまま火炎放射を行ったが、やはり危険なために演技者無しで撮影するようになった。
この頃、水中から現れた後に演技者無しのガメラが火を吐くシーンでガソリンが暴発し、ぬいぐるみが破壊されて1週間撮影が中断してしまったことがあった。奇跡的に怪我人はなかったという。
このときちょうどプロデューサーの斉藤米二郎が見学中だった。斉藤は「(本社と現場に挟まれて)普段ブーブー言ってるから、わざとやったんじゃないかと」と笑っている。火薬の量も試行錯誤で、飛行シーンでもよく爆発があったという。湯浅は「火薬は出たとこ勝負で、量を一ひねり多く詰めるだけで全然違っちゃう」と語っている。

監督の湯浅憲明は「怪獣映画」について、「基本的には見世物小屋のろくろ首。お金出して暗闇の中で観る。ショーとしての面白さ。理屈をつけるのもいいけど、それより面白さですよ。」と語っている。
自身が「子供好き」という湯浅は、子供の視点から見た作劇を念頭に置き、ガメラと子供とが意志を通じ合わせるという描写は、一種のテレパシーのようなものと解釈して演出した。当時、観客の子供たちから「俊夫少年が捨てた亀がガメラになったの?」との質問を受けたという。
ガメラはラストでロケットにより宇宙へ追放されるが、これは湯浅らスタッフの「主役なんだから殺さないでおこう」との親心だった。2作目が制作されるとは、スタッフの誰も考えていなかったという。

八木正夫や村瀬継蔵ら造形陣は特殊造形だけでなく、操演にも参加した。操演現場には高橋章もアルバイト参加している。この当時の造形仲間は、本作の制作後に造形会社「エキスプロダクション」を設立し、本作以降にもガメラシリーズに関わることとなった。大映の美術部員だった三上陸男も本作の制作後、大映を退社してエキスプロに参加している。

クレジットはされていないが、大映専務の永田秀雅が製作者として参加している。永田は「大映の映画には、至上命令として
「役者の顔を綺麗に撮る」という特徴があり、ガメラ映画にしても主役のガメラの顔は全部綺麗に撮っている」といい、
「これは今までガメラについて解説された本で見落としている点です」と語っている。

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築地 米三郎は、1923年東京都出身の特撮監督、プロデューサー。

1939年(昭和14年)、神田電機学校(現:東京電機大学)を卒業。父親の親友だった青島順一郎撮影技師の紹介で、映画会社新興キネマに入社。撮影助手となる。
1942年(昭和17年)、新興キネマが大都映画、日活と合併、「大日本映画製作株式会社」となる。
同年、日本軍の要請で大日本映画が『香港攻略 英国崩るるの日』を製作。香港ロケに参加し、合成を手掛ける。
1945年(昭和20年)、「大日本映画製作株式会社」が「大映株式会社」となり、翌年特殊撮影キャメラマンに昇進。このあと、東宝を公職追放されフリーとなった円谷英二が大映に嘱託参加。円谷に師事して特撮の技法を学ぶ。

1954年(昭和29年)、ヨットを題材にした青春映画『真白き富士の嶺』(佐伯幸三監督)で、特殊撮影を初演出。ミニチュア撮影のほか、東洋現像所が当時日本で初めて購入したオプチカル・プリンターを使用し、「パン合成」(横移動を含めたフィルム合成)に成功。フィルムにずれの生じやすいこの高度な技法を、ズレを調整する機械を作って見事成し遂げ、永田雅一大映社長から「永田社長賞」を授与される。

大映では特撮描写はリアルさが求められ、前面に押し出されることがあまり無かった。撮影所でも特撮部門は力が弱く、築地も「監督」表記されることは無かった。が、やがて大作主義への移行と共に、大映も大規模な特撮映画を製作するようになっていく。

1956年(昭和31年)、カラーSF映画『宇宙人東京に現わる』(島耕二監督)に参加。的場徹を手伝う。同年、カラー作品『午後8時13分』(佐伯幸三監督)で特撮を担当する。

1958年(昭和33年)、『氷壁』(増村保造監督)で、ザイル登山シーンの特撮を担当。セットのスケール感を出すため、当時小学校一年生だった長男と、その同級生に吹き替えをしてもらった。息子は泣きながら演じてくれたという。

同年、大映京都撮影所制作の『日蓮と蒙古大襲来』(渡辺邦男監督)に参加。大映京都には特撮課が無かったため、築地は特撮アドバイザーとして呼ばれた。

1962年(昭和37年)、70mm大作スペクタクル映画『秦・始皇帝』(田中重雄監督)の特撮を監督。
当初『鯨神』(田中徳三監督)の担当予定で、段取りを組んでいたところ、永田雅一社長から撮入直前に急遽『秦・始皇帝』担当を命じられ、『鯨神』の特撮は的場徹にまかせることになったという。

1963年(昭和38年)、特撮パニック映画『大群獣ネズラ』を企画するが、「生きたネズミを使う」という撮影方法が衛生問題となり、組合争議にまで発展して撮影中途で頓挫してしまう。「テストまでして会社に損させてしまいました」と述懐している。

1965年(昭和40年)、大映初の怪獣映画『大怪獣ガメラ』(湯浅憲明監督)の特撮を担当。大ヒットとなり、シリーズ化された「ガメラ映画」は大映のドル箱シリーズとなった。築地は「ネズラの失敗の後の名誉挽回です」と語っている。

この年、特撮に理解の無い大映を見限って退社。国際放映に移籍する。

1966年(昭和41年)4月、「築地特撮プロダクション」(のち築地企画と改名)を設立。テレビ番組などで腕を振るう。
1967年(昭和42年)、『コメットさん』(TBS)の特撮を担当。「ギャラクシー賞」を受賞する。
以後、各分野に特撮技術を提供、映画、ビデオ作品100本以上をプロデュースし、後進の指導にも当たる。

1979年(昭和54年)、「映画の日」に表彰される。
2010年(平成22年)、文化庁より「映画功労賞」を授与される。
2012年(平成24年)3月30日、胸腺癌のため死去。88歳没。


新興キネマでは青島キャメラマンに師事したが、兄弟子には岡崎宏三がいた。
特撮技師としては、戦後フリーだった円谷英二と交流があった。築地は神田電機学校出身の映画人だが、円谷もこの神田電機学校の出身である。

佐伯監督の強い要望で『真白き富士の嶺』で「パン合成」に成功するが、この作品は東洋現像所がオプチカル・プリンターを初めて導入し担当した作品だった。
東洋現像所でもオプチカル・プリンターの使い方が分からず、当時、大映でベル・ハウエルを改造し、自家製のオプチカル・プリンターを試作していたため、築地は一週間ほど東洋現像所で光学合成の指導に赴いたという。

1956年(昭和31年)の『夜の蝶』(吉村公三郎監督)では、自動車のミニチュアが崖から落ちるミニチュア特撮で、ミニチュアを支持している仕掛けが見えないようエバーソフト(ゴム)を道路に貼り付ける「エバーソフト・システム」という技法を編み出した。が、三つのキャメラで高速度同時撮影されたラッシュフィルムを観た吉村監督は何が写っているのか理解できず、「こんなの使えないよ」と文句をつけてきた。
そこで「明日の朝やり直して観せてやる」、「それじゃあ明日の朝お目にかかろう」と、売り言葉に買い言葉となった。築地は先だってのフィルムを5秒ほどのカットに編集し、翌朝吉村に観せたところ、吉村はその出来を絶賛し、「もう特撮のことには口を出さない」と頭を下げたという。築地は「カツドウヤの素人には、出来あがってからじゃないと見せられない」と語っている。この映画の特撮は、試写に訪れた原作者の川口松太郎に大変に褒められたという。

円谷監督とは、フィルム合成の技術交換で親しくなったという。
大映には東京も京都も、撮影所には最後まで現像所が無かった。昭和30年代初頭、特殊な製法の必要な絵合成の際の現像液は、東洋現像所が提供してくれなかった。このため、大映で金湖という技術者と渡辺善夫とで現像液を研究し、発色現像に成功していた。当時渡辺は東宝を辞めてフリーだったが、大映で発色現像に成功した旨を円谷に報告したところ、当時東宝に復帰していた円谷が合成技師の向山宏と二人で出向いてきて教えを乞うたため、発色現像のノウハウをすべて伝授したという。

こういったいきさつで、築地が『あゝ零戦』の特撮を担当した際に、大映には戦闘機のミニチュアを作る技術も技術者もいなかったため、旧知の円谷英二に頼み込み、大映・東宝両者に内緒で零戦のミニチュアを個人的に貸出してもらった。
『大怪獣ガメラ』でも、大規模特撮のノウハウが撮影所に無かったため、かなり円谷に相談に乗ってもらった。

1956年(昭和31年)の『豹の眼』(鈴木重吉監督)では、屋外プールで船のミニチュアの撮影を行ったが、フィルムの感度の悪かった時代で、曇天の天候待ちで手こずり、プールに入ってミニチュアの直しをしたところ、その晩になって盲腸炎を発症。即手術となり、1週間で抜糸して現場復帰し、何とか封切りに間に合わせたという。

1958年(昭和33年)の『日蓮と蒙古大襲来』では大映京都撮影所に出向し、この映画のために特撮大プールを作らせ、東京撮影所から船のミニチュアを運び込んだ。

築地は特撮について、「冒険であり、チャレンジ精神がなければ駄目」と語り、また「人間関係が大切だ」と語っている。

没年前年の2011年7月に刊行された『特撮ニュータイプ』8月号のインタビューにおいて、印象に残っている作品として、『幽霊塔』(昭和23年)、『細雪』(昭和34年)、『あゝ零戦』(昭和40年)、『大怪獣ガメラ』(同年)を挙げている。





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