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円谷英二的日本特撮映画史



青島要塞爆撃命令
1963年(昭38)5月29日公開/東宝/99分/
総天然色/シネマスコープ
製作 田中友幸 脚本 須崎勝弥  監督 古澤憲吾
撮影 小泉福造 音楽 松井八郎  美術 北猛夫
 特技監督 円谷英二  撮影 有川貞昌
富岡素敬
美術 渡辺明
合成  向山宏  照明 岸田九一郎 光学撮影 真野田幸男
 製作担当者 小池忠司  助監督  中野明慶  - -
出演-加山雄三・佐藤弁・夏木陽介・池部良・浜美枝・藤田進・平田昭彦・田崎潤・清水元・野村浩三

前作「太平洋の翼」から約5ヶ月後に公開された。前作に続いての「加山・佐藤・夏木」トリオによる戦争映画。

今回は監督・古澤憲吾の意向か、痛快戦争アクションに仕上がっている。
フレッシュ三人トリオの性格付けが今一つではあるが、太ももがエロい浜美枝も良いし、池部良の抑えも渋い。
古澤憲吾監督は前年1962年に「ニッポン無責任時代」「ニッポン無責任野郎」を撮って乗りに乗っていた時代。

特撮シーンは、等身大の水上機の奥にミニチュアを配したカットなど、本編と特撮の融合が見事だ。またラストの列車爆破シーンも凄い。

ただ特撮シーンの編集が、今回はいつもの円谷編集と異なっている。多分、監督自身がかなり編集に関与しているはずだ。

大ラスの、トンネル内での連続誘爆シーン、特撮映画の白眉のシーンとなった。


以下Wikiより転載
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日本映画としては珍しく、第一次世界大戦を扱った作品。青島の戦いを題材に、日本初の海軍航空隊としてドイツ軍に立ち向かった若者たちを描く。

劇中のドイツ兵のセリフは、画面の隅に並ぶ通常の日本語字幕に加え、画面いっぱいに「敵は勇敢だ!」「底抜けに勇敢だ!」
といった手書きの字幕が広がるなど、他の作品には見られない演出がなされている。

特撮
撮影にあたっては、モ式ロ号水上機とルンプラー・タウベの翼長1メートル以上の精巧なミニチュアに加え、プロペラが回る本編撮影用の実物大モデルが製作された。どちらも撮影はセットのほか、富士山ではヘリコプターから吊って行われた。
モ式ロ号水上機の実物大モデルは、大日本飛行協会で保存していた分解状態の実機を借りて復元図面を起こし、グライダー専門の職人によって組み立てられた。
また、若宮丸も実際に貨物船を使用して撮影されている。艦上のシーンは、三笠公園で保存されている戦艦「三笠」で撮影されている。

ビスマルク要塞のセットは御殿場に巨大なオープンセットが組まれ、ヘリコプターから空撮された。
しかし、本番時にはヘリから火薬の位置がわからなくなり、撮影のタイミングが合ったのは10発中4発程度であった。

クライマックスに登場する弾丸運搬列車は特注で鋼鉄製のミニチュアが作られ、『ゴジラ』でも部分的に用いられた無人カメラで撮影された。このミニチュアは、2012年のイベント「館長 庵野秀明特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」で展示された。


監督・古澤憲吾

「パレンバン降下作戦の勇士だった」と自称していたことから、「パレさん」の愛称で親しまれた。が、古澤が航空部隊に入隊したのは「パレンバン襲撃」の後であり、松林宗恵監督なども「あれはでまかせ」と述べている。 ただ実際の降下作戦ではないが、古澤自身は助監督として参加した『加藤隼戦闘隊』(1944年、山本嘉次郎監督)で、パレンバン降下作戦の再現シーンに落下傘部隊員役で出演してはいる。

クレージー映画や若大将シリーズでのクレジットタイトルで、画面の奥から名前が飛び出してくるような特殊なクレジットを使ったり、空撮・俯瞰ショットの多用、劇中で「軍艦マーチ」を流したり、登場人物に「人生劇場」を口ずさませたりするといった独特の作風で知られる。
「原節子はおれに惚れていた」などと怪しいことを吹聴したり、常に全身黒ずくめの出で立ちだった岡本喜八に対抗してか、上下真っ白なスーツに帽子、靴下に靴まで白づくめで現場に立つなど、奇人として知られた。

演出時のテンションの高さは撮影所でも有名だった。撮影中の指示はとにかく大声で、始終怒鳴りまくっていた。小林夕岐子によると、
これは東宝の監督では珍しかったという[2]。撮影中の怪我はしょっちゅうで、オープンカーによる移動撮影で、「用意」の声の後、車から転げ落ちて「カット」が言えず、そのまま松葉杖を突くことになったこともあった。
「なんでもいいからキャメラを回せ」が口癖で、勢いですべて進めていくタイプだった。「画面に動きが無いと勢いが生まれない」と、室内のカットでも背後に常に歩行者を写し込む手法を多用し、また短いカットシーンを好んだ。

浜美枝は「他の監督の映画より圧倒的にフィルムチェンジが多かった」と語っている。 
一度フィルムチェンジ中でフィルムマガジンが空なのに、「なぜキャメラを止めてるんだ、いいから回せ!」とフィルム無しで演出を続行したことがあったという。
ただ中野昭慶特技監督は、「実際は言動に反して性格は繊細で、現場の流れや勢いに任せて撮ることはなかった」と語っている。

『日本一のゴマすり男』の冒頭、植木等演じる主人公が、父親に頼まれ(文字通り)ゴマをするシーンで、そのすぐ横の竹かごに子猫を2匹用意させ、その愛らしさで観客の心をなごませよう、という部分まで計算していたこともあったという。また『海の若大将』などの試合シーンの撮影にあたって「観覧に来てくれれば、加山雄三の歌を聞かせる」などと新聞広告を打ち、押し寄せた大量の加山ファンにそのままエキストラとして参加してもらうなど、アイデアマンの一面もあった。

「クレージー映画」では、あまりに前後の脈絡のない「中抜き撮影」の多用に、演技理論を破綻させられた浜美枝は真剣に悩み、疑問を呈したところ「なにも考えなくていいんだ!」と返されたという。浜によると、植木もこれには頭を抱えて悩んでいたという。

植木が後に語ったところによると、古澤作品に初参加の藤岡琢也が撮影現場にやってくると、古澤は、「藤岡君、私はリアルを追求する監督だからね」と言ったという。そこで藤岡が、植木にそれは本当なのかと尋ねたところ、植木は、「我々が考えるリアルとあの人が考えるリアルは、こんなにも違うのかと思うことになるよ」と答えたという。

由利徹がお気に入りで、クレージー作品をはじめとするコメディものには、人見明と共に度々出演させ、重用された。美術監督の村木忍とのコンビも多く、村木をいつも「女史!」と呼んで重用していた。

特撮戦記映画『青島要塞爆撃命令』(1963年)では、「特撮は迫力が無いから使わない!」と主張。円谷英二特撮監督に「じゃあ特撮なしでやってみなさい」といなされて古澤のみで撮影に入ったが、結局円谷のところへ詫びを入れる始末となった。その後は特撮の出来を見て「やっぱり円谷だな」と平伏していたという。

東京裁判に異議を唱える立場から日本の近現代史を描く『アジアの嵐』の企画を東宝に提出し続けていたが、政治的話題を嫌う東宝の社風に阻まれて実現することはなかった。
「日の丸の赤い色」が大好きで、自作映画のタイトルの色にもこだわり、納得のいく「日の丸の赤色」にするため現像所にまで押し掛けた。このため、現像所では古澤のイメージするこの赤色を「パレ赤」と呼んでいた。古澤の作品のラストが必ずこの「パレ赤」のタイトルが出て終わるのもこうした古澤のこだわりだった。

晩年は名を全穏(まさとし)と改め、消火器販売や駐車場の管理人、建築現場の交通整理をして生計を立てていたという。共産党嫌いでも知られた。左翼映画の巨匠で、政治的には東宝争議以来の仇敵ともいうべき山本薩夫の邸にそれと知らずに消火器を売りに訪れ、慌てて踵を返したこともあった。
松林宗恵監督は、古澤について「あれはホントの右翼だったからね」と語っている。





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