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極私的日本特撮映画史
円谷英二の軌跡

-日本の特撮映画の第一人者である円谷英二の軌跡と
日本映画の特撮についての個人的考察-

昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で
特撮映画界に多大な功績を残したことから特撮の神様と呼ばれる。
円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、
映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史とそのまま重なっている。

9/29 更新



 ★ 駄作  途中でやめたくなる
 ★★  珍作  興味あれば
 ★★★  普通  それなりの出来
 ★★★★  佳作  かなり面白い
 ★★★★★  傑作  超オススメ

「拝啓 渥美清 様」
<俳優渥美清の映画に関しての個人的考察サイト>


「勝新と雷蔵」
<勝新太郎と市川雷蔵映画に関しての個人的考察サイト>


1900-1950年代

1901年
(明治34年)
0歳
1901年(明治34年)、
本名・円谷英一(つむらや えいいち)として、福島県須賀川市で誕生する。生家は糀業を営む商家だった。

3歳。母セイが次男出産後病死(享年19)。婿養子だった父の白石勇は離縁され、英一は祖母ナツに育てられる。ナツの家系には、日本に銅版や洋画を持ち込んだ亜欧堂田善がいた。また、5歳年上の叔父一郎が、兄のように英一を助け、可愛がってくれた。

1908年(明治41年)、7歳。
須賀川町立尋常高等小学校尋常科に入学し、成績は優秀だった。自宅敷地内の蔵の二階を私室としてあてがわれ、水彩画に没頭する。絵の腕は大人も驚く出来だった。あまり外交的な子供ではなかったという。
1910年(明治43年)、9歳。
東京の代々木錬兵場で徳川好敏、日野熊蔵両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功、これに強く感銘を受けた円谷は飛行機乗りに憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭する。6年生になると、金属製の飛行機の発動機を製作するほどの飛行機少年だった。
  1905年8月・『『月世界旅行』日本公開

1902年にフランスのジョルジュ・メリエスが脚本・監督した、モノクロ・サイレント映画。1秒16フレームで、14分の作品。
原作はジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』だが、この作品を大幅に簡略化し、変更を加えたものである。後半の月人のエピソードはH・G・ウェルズの『月世界最初の人間』(1901年)が基になっている。
本作は30のシーンで構成されており、当時の映画としては珍しい複数のシーンで撮られている。また様々なトリック撮影の技法が使われており、なおかつ物語があるという、非常に画期的な作品である。世界初のSF映画とされており、映画史を語る上で必ず登場する重要な作品の一つである。
日本でも1905年8月に、明治座で公開され、のちに『月世界探検』の邦題で再公開された。
2000年、米『ヴィレッジ・ヴォイス』紙発表の「20世紀の映画リスト」で第84位にランクインされた。
本作品は著作権が切れパブリックドメインとなっているため、インターネット上で動画を視聴することができる。
1911年
(明治44年)
10歳-11歳

1911年(明治44年)、10歳。
巡業の活動大写真で『桜島爆発』を鑑賞するが、映像よりも映写メカニズムに強く興味を持つ。貯金をして子供用映写機を購入し、巻紙を切ったフィルムで手製の映画を作った。

1912年(大正元年)、11歳。
新聞に載った一枚の飛行機の写真を元に、精巧な模型飛行機を制作し、地元新聞の『福島民友』の取材を受ける。

1912年
(大正元年)
13歳-15歳

1914年(大正3年)、13歳。
尋常小学校高等科に入学。

1916年(大正5年)、15歳。
尋常高等小学校8年生の課程を終える。米国人飛行士アート・スミスが東京で曲芸飛行を行い、この報道を受けてさらに飛行機熱を高める。
同年10月に上京、京橋区の月島機械製作所に見習い入社するが一月余りで退社。

同年11月、家族が大反対する中、操縦士を夢見て、玉井清太郎の紹介で、8月に開校したばかりの羽田の日本飛行学校に第一期生入学する。入学金は当時で600円(新築の家が二軒建てられた値段だった)したが、叔父の一郎が工面してくれた。

この第一期生応募者には稲垣足穂もいた。稲垣は自書『ヒコーキ野郎たち』でこのときの円谷に言及しており、円谷も逝去時まで同著を意識した『日本ヒコーキ野郎』というTV企画を構想している。ちなみに『サンダーバード』のジェリー・アンダーソンや『スタートレック』のジーン・ロッデンベリーも航空関係の仕事についていたことがある。

1917年
(大正6年)
16歳


1917年(対象6年)、16歳。
日本飛行学校が帝都訪問飛行に失敗、一機しか無い飛行機が墜落、教官・玉井清太郎の死によって同校は活動停止(同年の関東大水害で設備や機材も喪失)。夢は破れ、退学する。

同年、神田電機学校(現:東京電機大学)夜間部(東京工科学校(現:日本工業大学)の説もあり)に入学する。このころ、学費の足しにと、叔父の一郎の知り合いが経営する内海玩具製作所という玩具会社の考案係嘱託となり、「自動スケート」(足踏みギアの付いた三輪車)、「玩具電話」(電池式で実際に通話が可能。インターフォンとして使用できた)など、玩具の考案で稼ぐ。のちの公職追放中も、さまざまな玩具や商品の発明・新案で糊口をしのいでいた。「自動スピード写真ボックス」(今で言う証明写真ボックス)などもその発明のうちである。

1919年
(大正8年)
18歳-

1919年(対象8年)、18歳。
新案の玩具「自動スケート」「玩具電話」等が当たって「500円(当時)」という多額の特許料が入り、祝いに玩具会社の職工達を引き連れ飛鳥山に花見に繰り出した際、職工達が隣席の者達と喧嘩を始めた。年若い円谷がこれを仲裁したことで、喧嘩相手だった天然色活動写真株式会社の枝正義郎に認められ、映画界に入ることとなる。同社はこの年、国際活映(国活)に吸収合併される。
同年、天活作品『哀の曲』のタイトル部分を撮影する。

1920年
(大正9年)
19歳
1920年(大正9年)、19歳。
会社合併に伴い、国活巣鴨撮影所に入社。神田電機学校を卒業する。
国活ではカメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て見事やり遂げ、一気にカメラマンに抜擢される。

1921年(大正10)、20歳で兵役に就き、会津若松歩兵連隊で通信班所属となる。
1923年
(大正12年)
22歳

1923年(大正12年)、22歳。
除隊後、祖母の家業専念の誘いを拒み上京。東京の撮影所は直前の関東大震災で壊滅状態であったが、国活に復帰して『延命院の傴僂男』を撮影。この作品は翌年元旦より、浅草大東京館にて公開された。

1924年
(大正13年)
23歳
震災後、各映画撮影所が京都へ移ったため、円谷もこれを頼って京都に居を移し、小笠原明峰の小笠原プロダクションに所属する。
 19245年
(大正14年)
24歳
1925年8月5日『ロスト・ワールド』日本公開
監督:ハリー・O・ホイト、原作:アーサー・コナン・ドイル、特殊効果・技術監督:ウィリス・オブライエン

人形アニメによるリアルな恐竜の表現が大評判となった無声映画。ストップモーションや特殊メイクを積極的に使用、当時としては非常にリアルな「異世界とそこに生きる生物達」を描き、大ヒットを記録。
本作品の成功が、同様に特撮映画の古典である『キングコング』へ、ひいては特撮映画(モンスター映画)というジャンルの定着へと繋がっている。SFXはウィリス・H・オブライエンが担当、7年がかりで撮影している。
なお、1960年には、本作のリメイク映画『失われた世界』が公開され、ウィリス・H・オブライエンの名もクレジットされている。
1926年
(大正15年)
25歳
衣笠貞之助、杉山公平らの衣笠映画聯盟設立(松竹傘下)とともに、連盟に所属。『狂った一頁』の撮影助手を担当した。なかなか本心を明かさず、酒が入ると「テヘラテヘラと笑う」円谷に、衣笠は「テヘラ亭」とあだ名を付けた。一方、キャメラマンたちからは先進的な撮影手法が反発を買い、「ズボラヤ」と呼ばれる
1927年
(昭和2年)
26歳
1927年(昭和2年)、26歳。
林長二郎(長谷川一夫)初主演作である『稚児の剣法』(監督:犬塚稔)でカメラマンを担当、林を何重にもオーバーラップさせる特撮手法を採り入れ、映画は大成功となった。
1928年
(昭和3年)
27歳 
正式に松竹京都下加茂撮影所に入社。
『怪盗沙弥磨』が入社第一作となる。『十字路』(衣笠貞之助監督)を、杉山公平とともに撮影。
 1930年
(昭和5年)
29歳。
 自費を投入して、移動撮影車や木製のクレーンを制作する。このクレーンで俯瞰撮影中に転落事故を起こし、その看病をしてくれた縁で知り合った荒木マサノ(当時19歳)と結婚、「円谷英二」と名乗るようになる。兄のように尊敬する5歳年上のおじの名が「一郎」だったので、遠慮して「英二」を名乗るようにしたという。結婚後、下加茂撮影所裏の一軒家に居を構える。


1931年
(昭和6年)
30歳

渡欧していた衣笠監督の帰国後一作目となる『黎明以前』を、杉山公平とともに撮影。 ホリゾントを考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行う。長男一が誕生。

このころ、「アイリス・イン」、「アイリス・アウト」(画面が丸く開いたり、閉じたりする映像表現)、「フェイド・イン」、「フェイド・アウト」、「擬似夜景」などの撮影手法を、日本で初めて使用したり、セットの奥行を出すために背景画を作る、ミニチュアセットを作る、一部の画面を合成するなど、後の特撮技術に通じることを行なっている。また、足元から煙を出して臨場感を高める手法で「スモーク円谷」と呼ばれた。給料の約半分を撮影技術の研究費につぎ込み、さらに、協力者に対してただ酒をおごる毎日だった。

しかし、これら特殊撮影技師としての姿は当時、他のカメラマン達には理解できず、「何をやっているのかわからないズボラヤだ」と揶揄された。
さらに「一番のスタアである林長二郎の顔をリアルに黒く写した」としてその撮影手法が社内で反発を受け、撮影待遇をセットもロケも格下の「B級」に落とされ、照明すら制限された。当時の時代劇映画は歌舞伎の延長にあって、映画的リアリティなど無視して二枚目歌舞伎役者たちの白塗りの顔をくっきり映すものであり、こうした撮影手法はタブーだったのである。

円谷はこの待遇の中、足りないライトで撮影したフィルムをネガを特殊現像で補強したり、チャチなセットを立派に見せるため「グラスワーク」(キャメラの前に絵を描いたガラス板を置く手法)やミニチュア撮影を投入した。それもそもそもはこういう冷遇状況から生まれた工夫だった。

1932年(昭和7年)、31歳。
杉山公平の音頭取りの下、酒井宏、碧川道夫、横田達之、玉井正夫ら京都の映画人らと日本カメラマン協会を結成する。犬塚稔とともに日活太秦撮影所に引き抜かれて移籍。またこの頃、研究資金と生活費の足しにと、現像技術を生かした新案の「30分写真ボックス」を四条河原町の大丸百貨店に売り込み、大丸二階に設置された。この写真ボックスは大評判となる。円谷は自らボックスに詰め、現像を行った。

1933年
(昭和8年)
32歳

日活入社初作品として、大河内傳次郎の『長脇差風景』を撮影。
同年、映画『キング・コング』日本公開。試写で同作を鑑賞した円谷はこの特撮に衝撃を受け、フィルムを独自に取り寄せ、一コマ一コマを分析し研究した。

この年の末に日活幹部立会いの下、スクリーン・プロセスのテストを行うが不調に終わる。

  1933年3月2日『キングコング』日本公開
監督 メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シェードザック、製作総指揮デビッド・O・セルズニック、出演フェイ・レイ、ブルース・キャボット

世界初のトーキーによる怪獣映画。恐竜などが生息する南洋の髑髏島から見世物にされるためにニューヨークへ連れて来られた巨猿キングコンクの物語。
特撮面ではコングが人形アニメ(ストップモーション・アニメ)で表現されたことが大きな特徴で、『ロスト・ワールド』(1925年)に続いてウィリス・オブライエンが手腕をふるう卓越した特撮映像は多くの映画人に影響を与え、レイ・ハリーハウゼンが本作の影響から映画制作を志し、また円谷英二が特撮監督の道を志すきっかけとなった作品でもある。
淀川長治によると、公開当時、RKOにはこの映画を観た観客達から「本当にあんな生物がいるのか」との問い合わせの電話が殺到したという。
1934年
(昭和9年)
33歳。
『浅太郎赤城颪』でスタアだった市川百々之助の顔に「ローキー照明(キーライト)」で影を作り、松竹時代も物議をかもしたその撮影手法を巡って日活の幹部と対立、同社を退社する。円谷はこの「ローキー照明」を好んだために、日活ではバスター・キートンに引っ掛けて「ロー・キートン」と呼ばれていた。
同年、円谷の特殊技術に注目した大沢善夫の誘いにより、撮影技術研究所主任として、東宝の前身であるJOトーキーに移る。
12月、『百万人の合唱』で、大沢善夫から資金を受け、自ら設計した鉄製クレーンを完成し、撮影に使用する。
  1934年9月14日公開『大佛廻國・中京篇』
監督枝正義郎・出演石川秀道

枝正義郎監督が東亜キネマから独立して制作された作品。
「大仏が動き出し、名古屋を巡り歩く」という題材を大規模なトリック撮影で描いた映画作品で、
日本映画では初めて「着ぐるみとミニチュアで巨大なキャラクターを表現した作品」とされる。

内容については「幼稚」「日本映画の異色篇」など様々だが、映像技術については一定の評価がされている。また、映画の舞台となった名古屋市では映画館が満席になるなど好評だった。

フィルムは戦災で焼失したため、現存していない。ただし、戦後間もないころには断片的ながらフィルムが現存していたとされる。

1935年
(昭和10年)
34歳。

2月から8月にかけ連合艦隊の練習鑑「浅間」に乗艦。
ハワイからフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを回り、練習生の実習風景の長編記録映画『赤道を越えて』を撮影。これが監督第1作となった。次男皐が誕生。

同年、アニメ作家政岡憲三と組み、人形アニメ映画『かぐや姫』を撮影。

 1936年
(昭和11年)
35歳
ナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの指示で製作された日独合作映画『新しき土』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用し、この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られるアーノルド・ファンク監督を唸らせた。

このスクリーン・プロセス装置は、円谷が京都時代から私費を投じて開発し続け、JOに移って大沢善夫の援助でついに完成させたものだった。ファンク監督は「これほどの装置はドイツにもない」と感嘆し、円谷に「ドイツに持って帰りたいから、ぜひ譲ってくれ」と頼み込んだほどだった。

また同時に、『日本スキー発達史』(澤蘭子主演)をファンクのスタッフとともに撮影。日本初の合作映画となるはずであったが、未編集のままお蔵入りする。

同年、人気芸者・市丸の主演2作目(薄田研二共演)となる『小唄磯 鳥追いお市』で、監督、撮影、編集すべてを手掛けた。
 1938年
(昭和13年)
37歳
1937年(昭和12年)、36歳。
9月10日を以て、「株式會社冩眞化学研究所」、「PCL映画製作所」、「東宝映画配給」の3社と、円谷の所属する「JO」が合併し、「株式会社東宝」が設立される。

これに伴い、ハリウッド視察で特殊撮影の重要性を痛感していた常務取締役の森岩雄に招かれ、同年11月に砧の「東宝東京撮影所」に移る。ところが東京撮影所のカメラマン達から「ズボラヤをカメラマンと認めるわけにはいかない」と理不尽な反発を受け、円谷は撮影ができなかった。そこで森は円谷のために一計を案じ、11月27日付で特殊技術課を設立して、課長待遇で迎えることとした。しかし、これは直属の部下のいない孤立無援の出発であり、のちに円谷もこの状況を「部下なし課長」と自嘲気味に回想している。ここで円谷は研究予算を受け、自身の設計による国産初のオプチカル・プリンターの実験にかかる。

同年12月27日、マサノと二児とともに、東宝の用意した祖師谷の一戸建て住居に移る。
1939年
(昭和14年)
38歳

1939年(昭和14年)。38歳。
特殊技術課に隣接する線画室に、鷺巣富雄(うしおそうじ)が入社。鷺巣は、円谷から動画技術を指導され、隠れて円谷のオプチカル・プリンターの助手を務めた。

この年、陸軍航空本部の依頼があり、嘱託として埼玉県の熊谷飛行学校で飛行機操縦の教材映画(「文化映画」)を演出兼任で撮影。『飛行理論』の空中撮影を、円谷は一人で操縦しながら撮影、アクロバット飛行も披露してみせ、陸軍を唸らせた。この空撮部分は円谷自身の編集によって、『飛行機は何故飛ぶか』、『グライダー』にも活用された。また、『嗚呼南郷少佐』を監督(撮影兼任)した。

1940年
(昭和15年)
39歳 
1940年(昭和15年)。39歳。
5月に『皇道日本』で撮影を担当。同じく5月の『海軍爆撃隊』では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影した。

この『海軍爆撃隊』は文化映画部部長松崎啓次が円谷のミニチュアテストフィルムの出来栄えを見て、「第一回航空映画」として企画したものである。「飛行機を吊り固定し、背景の岩山を回転させて岩肌を縫う飛行シーンを撮る」という、後年の『ハワイ・マレー沖海戦』の先駆けとなる円谷の特撮は、公開時大評判となった。
同年9月、『燃ゆる大空』で特撮を担当、『日本カメラマン協会特殊技術賞』を受賞する。

この夏頃から、円谷は特技課に川上景司、奥野文四郎、向山宏、天羽四郎、西浦貢、渡辺善夫、上村貞夫らを招き、人材の充実を図る。 
解説 「海軍爆撃隊」
(1940年5月22日・東宝・モノクロ・97分)

監督:木村荘十二/脚本/主演
特殊撮影-円谷英二
解説 「燃ゆる大空」★★★
(1940年9月25日・東宝・モノクロ・105分)
監督:阿部豊/脚本/主演
特殊技術撮影-円谷英一
1941年
(昭和16年)
40歳

12月8日、太平洋戦争突入。これに伴い、東宝は本格的に軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画を制作することとなる。俄然特撮の需要が高まり、円谷率いる特技課は以後、特撮が重要な役目を果たすこれら戦争映画すべてを担当していく。

同年、『上海の月』(成瀬巳喜男監督)で、上海湾内を襲う台風の大がかりなミニチュア特撮を担当。

1942年
(昭和17年)
41歳

阿部豊監督作品『南海の花束』で本格的なミニチュアワークによる特撮シーンを演出。この作品では、監督の許可を得て、自ら絵コンテを構成しており、特に落雷を受けた海面が爆発する描写が圧巻であると評判をとる。

同年10月15日『翼の凱歌』公開。
特撮シーンは円谷英二が手がけているが、陸軍の協力により実機でのシーンが多いため特撮シーンは墜落や撃墜のシーンのみと少ない。

同年12月8日、特撮の腕を存分に振るった『ハワイ・マレー沖海戦』が公開され、大ヒット。撮影中から皇族や軍、著名人が見学に押しかけて目を見張った、フルスケールの真珠湾の特撮セットが話題となり、日本映画界に特撮の重要性を知らしめた。
本作で円谷は「日本映画撮影者協会技術研究賞」を受賞。製作部特殊技術課長兼特殊撮影主任に就任する。この作品で美術スタッフに渡辺明、利光貞三が加入。

同年、国産初のオプチカル・プリンターをついに完成する。この円谷特製のオプチカル・プリンターは手動式で使いやすく、きめの細かい合成が出来たという。

「南海の花束」
(1942年5月21日・東宝・モノクロ・106分)

監督-阿部豊/脚本-阿部豊・八木隆一郎
解説 翼の凱歌★★
(1942年10月15日・東宝・モノクロ・109分)

監督-山本薩夫/脚本-外山凡平・黒澤明

特殊撮影-円谷英二
解説 「ハワイ・マレー沖海戦」★★★★
(1942年12月3日・東宝・モノクロ)

監督-山本嘉次郎/脚本-山本嘉次郎・山崎謙太
1943年
(昭和18年)
42歳
『ハワイ・マレー沖海戦』の成功を見て、松竹映画が円谷組から特撮スタッフの引き抜きを図り、特技課の川上景司、奥野文四郎を始め、10名ばかりが高給を条件に松竹へと移籍。

円谷率いる特技課は大打撃を被る。
1944年
(昭和19年)
43歳

『加藤隼戦闘隊』、『雷撃隊出動』、『あの旗を撃て』、『かくて神風は吹く』といった作品の全ての特撮を担当。三男粲誕生。戦火は激しくなる一方で、円谷は自宅の庭に防空壕を作った。

同年、東宝は創立記念日に、山本嘉次郎とともに円谷を功労者表彰する。

敗戦までのこの時期に、特殊な撮影法やミニチュアの使用、合成技術など、特撮技術のノウハウのほとんどが蓄積された。

解説 「加藤隼戦闘隊」★★★
(1944年3月9日・東宝・モノクロ・109分)
監督-山本嘉次郎、脚本-山崎謙太・山本嘉次郎、主演-藤田進
特殊技術-円谷英二
解説 「雷撃隊出動」★★★★
(1944年12月7日・東宝・モノクロ・95分)
監督-山本嘉次郎、脚本-山本嘉次郎、主演-大河内傳次郎
特技撮影-円谷英二
1945年
(昭和20年)
44歳

『勝利の日まで』、『間諜海の薔薇』、『北の三人』の特撮を担当、また、大映京都で『生ける椅子』を担当する。
同年8月1日、召集令状を受け、仙台連隊に入隊するも敗戦。除隊後、『東京五人男』(斉藤寅次郎監督)の特撮を担当する。

1946年
(昭和21年)
45歳 
  東宝がこの年製作した18本の映画のうち8本の特撮を担当。
1947年
(昭和22年)
46歳
撮影所は前年3月からこの年10月まで東宝争議に突入。労組はバリケードを組み、円谷が戦時中に使用した、零戦のエンジンを搭載した特撮用の大扇風機が警官隊撃退用に引っ張り出される始末であった。この大争議で東宝は映画製作どころではなくなり、円谷も『東宝千一夜』と『九十九人目の花嫁』の二本の特撮を担当したのみだった。

この中、1月に東宝は「部課制」を廃止して「職区制」を採り、特技課は「十三職区」に分けられる。円谷はこの「職区長」として「南旺撮影所」の所長に任命される。しかし政治闘争の場と化していく撮影所内部に嫌気のさした円谷は、この役職を捨て、東宝を離れ独立する。

またこの年、同じく東宝争議に嫌気がさし、東宝を辞めた有川貞昌(当時22歳)は、戦時中に観て感激した『雷撃隊出動』を撮った円谷と一度話がしたいと自宅を訪ねた。
海軍航空隊の対潜哨戒機パイロットだった有川は飛行機の話で円谷と意気投合した。その際、円谷に「我々日本人はもう飛行機(戦闘機)には乗れない。しかし乗りたいと思う若い人は一杯いる筈だ、その夢を実現できるのは我々しかいない。映画ならまた飛行機を飛ばせられる。一緒に新しい飛行機映画をやらないか」と誘われた。同じ飛行機乗りとして、この言葉に感動した有川は「円谷特殊技術研究所」の研究員となり、のちに円谷組のキャメラマンに抜擢され、さらには東宝の2代目特技監督となる。
1948年
(昭和23年)
47歳

3月に連合国軍最高司令官総司令部の公職追放によって「戦時中に教材映画、戦意高揚映画に加担した」として、重役陣ともども東宝を追放された円谷は、正式に東宝を辞職。また、東宝も十三職区(特殊技術課)を解散する。失職した円谷は困窮の極みとなる。

6月、福井県の福井駅前の大和百貨店から、戦前の「30分写真ボックス」を完全自動化改良した新案特許の「5分間スピード自動写真ボックス」を20台受注。フル操業で用意し出荷するも、折りしも福井を襲った福井地震によって駅に到着した全機を失うという憂き目に遭う。鷺巣富雄(うしおそうじ)はこのときの円谷の様子を、「見ていられないほどの落胆振りだった」と語っている。

フリーとなった円谷は東京の祖師ヶ谷の自宅の庭にプレハブを建て、「円谷特殊技術研究所」を設立。
『富士山頂』(新東宝)、『肉体の門』(吉本プロ)、『颱風圏の女』(松竹大船)の特撮を担当。

同研究所は他に大映京都などの映画の特撮部門を請け負ったが、ノンクレジットも多く、全容は不明である。

映画音楽の伊福部昭によれば、この年に月形龍之介との付き合いで、京都の小料理屋で円谷と知り合い、その後飲み友達となっていた。
円谷は貧窮しており、伊福部は数年にわたって「ただ酒をおごらされた」と語っているが、この間互いに名乗り合うこともなかった。二人は『ゴジラ』の製作発表の場で、ようやく互いの素性を知って驚き合ったというが、伊福部によれば、おかげで以後の仕事はお互いに気心の知れた、全く気兼ねのないものとなったという。

1949年
(昭和24年)
48歳

京都に赴き、大映京都撮影所で『透明人間現わる』『幽霊列車』の特撮シーンを担当。
大映はこの作品を、円谷の戦後初の本格的復帰作として用意、円谷は戦前の本家ハリウッド映画にも匹敵する透明人間の見事な視覚効果を演出している。しかし、円谷はこの特撮に満足せず、予定していた大映入社を断念する。

解説   「虹男」★★
(1949年7月18日・大映・パートカラー・81分)
監督-牛原虚彦、脚本-高岩肇、主演-小林桂樹
  「透明人間現る」
(1949年9月25日・大映・モノクロ・87分)
監督-安達伸生、脚本-安達伸生、主演-喜多川千鶴・月形龍之介
 1950年
(昭和25年)
49歳
『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』の特撮を担当。円谷は東宝撮影所内に六畳ほどの広さの「円谷特殊技術研究所」を移設。主に合成処理を請け負う。この年、正式に東宝社員となった有川貞昌の他、円谷の誘いを受け、東横映画にいた富岡素敬が、撮影助手として研究所員となった。 富岡、有川を合わせ、4、5人の陣容だった。

円谷は昭和25年から29年までの東宝すべての本編・予告編のタイトルを撮影しており、東宝映画の「東宝マーク」を有川とともに作ったのもこの時期である。

この年の『佐々木小次郎』(稲垣浩監督)での特撮が東宝作品の復帰第一作となるが、この時点ではまだ嘱託扱いである。
 1951年
(昭和26年)
50歳
 1952年
(昭和27年)
51歳
この年2月、日本独立後の公職追放解除を受ける。同じく公職追放を受けていた森岩雄が製作顧問として東宝に復帰したことで、再び円谷も本社に招かれ、『港へ来た男』の特殊技術を担当。これが、正式な作品契約としての東宝復帰作となる。

5月、企画部に「クジラの怪物が東京を襲う」という映画企画を持ち込む。

7月、東宝は体制を一新し、「製作本部」を設置。本部長には5月にアメリカ映画界視察を終え、帰国した森岩雄が就任。新しいシステムの導入として、田中友幸を含む、9人から成るプロデューサー陣を組み、制作体制を強化。
  1952年3月21日『地球が静止する日』(The Day the Earth Stood Still)日本公開
監督ロバート・ワイズ、脚本エドムンド・H・ノース、原作ハリー・ベイツ「主人の告別」、主演マスケル・ケニー、パトリシア・ニール

1952年「ゴールデングローブ賞・ 国際賞」受賞

1950年代はSF映画ブームとなったが、「空想科学映画」は子供向けのお伽話であり、異星人は敵対するモンスターとして描かれ、スペクタクルが優先されるジャンルの映画と思われていた。その風潮の中で、ストーリーを重視して高い知性と友好的な異星人像を提示し、人類と異星人のファースト・コンタクトとそれに対する人類の動向をシミュレーション風に展開させた、本格SF映画の先駆的な作品。

異星人「クラトゥ」とロボット「ゴート」は、1977年「未知との遭遇」が公開されるまで、友好的宇宙人の代表的な名前になっていた。だが後年、ゴート出現シーンのスチル写真だけが取り上げられることが多く、映画の本質が見誤られていることもある。

製作にあたり、企画段階で、プロデューサーのジュリアンブロースタインは冷戦時代の国家対立を危惧し、なんらかの形で世界情勢を表す映画を作ろうと考えた。
「主人への告別」のテーマである「人が見知らぬものにどのように反応するか」が気に入り「主人への告別」を原作として採用した。
小説の設定で映画に使用されたのは、異星人のクラトゥ、巨大ロボット、ワシントンDCに出現したロケットだけで、先行する企画に合った小説を探したことから、ストーリーは異なったものになっている。
  1952年4月10日『地球最後の日』(When Worlds Collide)日本公開
監督ルドルフ・マテ、脚本シドニー・ポーエム、製作ジョージ・パル、主演リチャード・デア、バーバラ・ラッシュ

<あらすじ>
南アフリカのケンナ山観測所にて、地球への衝突コースを辿る2個の放浪惑星ベラスとザイラ が観測された。
ザイラの影響によって地震や洪水が世界中で頻発する。パニックも起こり、犠牲者が刻一刻と増えていった。
脱出ロケットがほぼ完成に近づく中、乗務員に選ばれるか否かが次第に重要課題となっていった。
計画の中心人物を除いては最終的にくじ引きによって決定された。
脱出ロケットは山の斜面を利用したカタパルトを滑るように動き出し、地球を脱出した。
やがて、飛来したベラスと激突して地球は砕け散った。発進地を失ったロケットが向かう先は、
新たなる地球と化したザイラだった。新たなる地球・ザイラでの人類の歴史が始まった。
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本作は、ジョージ・パル製作の『月世界征服』『宇宙戦争』『宇宙征服』とともに宇宙映画四部作と呼ばれる映画の一編である。パルはさらに本作の続編の映画化も計画していたが、資金などの問題から実現しなかった。

1962年公開の東宝映画「妖星ゴラス」 は本作の影響が強く、エンディングはアンチ・テーゼというべき対照的な関係にある(本作の地球脱出ロケットの乗員は、白人種だけだった)。

1998年公開のパラマウント映画「ディープ・インパクト」 は本作のリメイク企画が発展して製作された映画。
  1952年5月1日『遊星よりの物体X』(The Thing from Another World)日本公開
監督クリスティアン・ナイビイ、脚本チャールズ・レデラー、製作ハワード・ホークス、主演マーガレット・シェリダン、ケネス・トビー
ジョン・W・キャンベルによる1938年の短編SF小説『影が行く』の映画化。
監督名にはクレジットされていないが、演出の大部分は、制作者であるハワード・ホークスの手によることが定説となっている。また、一部をオーソン・ウェルズが手がけたという説もある。

脚本名にはクレジットはされていないが、ハワード・ホークスとベン・ヘクトも参加している。また、ハワード・ホークスの親友であった作家のウィリアム・フォークナーも一部参加したと言われている。

メイクアップ監修:リー・グリーンウェイ
特殊撮影効果:リンウッド・ダン
特殊効果:ドナルド・スチュワード

1982年にはジョン・カーペンター監督によりリメイク作品『遊星からの物体X』が製作された。
   「港に来た男」
(1952年11月27日・東宝・モノクロ・89分)

監督-本多猪四郎/脚本-成沢昌茂・本多猪四郎
音楽-斎藤一郎、主演-三船敏郎・久慈あさみ・小泉博
特殊技術-円谷英二
 
1953年
(昭和28年)
52歳

東映で『ひめゆりの塔』、重宗プロ他で『雲ながるる果てに』を担当。

この年、東宝は1億6千万円(当時)かけて砧撮影所を整備。総天然色時代に対応し、磁気録音機や常設のオープンセット、発電設備など、撮影設備・特撮機材を充実させる。また、「円谷特技研究所」の有川貞昌、富岡素敬、真野田陽一、樺島幸男らを正式に撮影所に迎え入れ、特撮スタッフの強化を図る。

こうした中、満を持して戦記大作『太平洋の鷲』が企画される。この作品は、前年にハリウッド視察を行った森岩雄によって、「ピクトリアル・スケッチ」(壁に貼り付けた総覧的な絵コンテ)が導入された、初の特撮映画である。
この映画に特技監督として招かれた円谷は、松竹大船と交わした「特殊技術部嘱託」を辞任してこれに当たり、その後長きに渡って名コンビを組むことになる本多猪四郎監督とともにこの『太平洋の鷲』を作りあげた。

この年、日本初の立体映画(トービジョン)作品、『飛び出した日曜日』(村田武雄監督)、『私は狙われている』(田尻繁監督)で立体撮影を担当。

また、企画部に「インド洋で大蛸が日本船を襲う」という映画のアイディアを持ち込む。田中友幸はこれが『ゴジラ』の草案のひとつとなったとしている。

  「アナタハン」
(1953年6月28日・東宝・モノクロ・92分)

監督-ジョセフ・フォン・スタンバーグ/脚本-ジョセフ・フォン・スタンバーグ、浅野辰雄
音楽-伊福部昭、主演-根岸明美・菅沼正・中山昭二
特殊効果-円谷英二・渡辺善夫
  1953年9月1日『宇宙戦争』』(The War of the Worlds)日本公開
監督バイロン・ハスキン、脚本バリー・リンドン、原作H・G・ウェルズ、製作ジョージ・パル、主演ジーン・ケリー、アン・ロビンソン

H・G・ウェルズの古典SF小説『宇宙戦争』を、『月世界征服』や『地球最後の日』を製作したジョージ・パルが映画化した作品。
物語の大筋は原作を生かしつつ、時代設定と主たる舞台は19世紀末のイギリスから製作当時のアメリカ合衆国カリフォルニア州南部に移された。
火星人の兵器も、原作に登場する「トライポッド」と呼ばれる三脚型の機械から「マーシャーン・ウォー・マシーン」と呼ばれる空飛ぶ円盤型の宇宙艇に変更され、原作が書かれた当時は存在しなかった原子爆弾も通用しない強敵に描かれている。
特撮は『地球最後の日』を手がけ、アカデミー特殊効果賞を2度受賞しているゴードン・ジェニングスや、同じく特殊効果賞を2度受賞し、この後『宇宙征服』にも参加するスクリーン・プロセスの専門家ファーシオット・エドゥアートらが担当した。「マーシャーン・ウォー・マシーン」の造形は、美術を担当した日系人アルバート・ノザキによるものである。
主演のジーン・バリーは、後のテレビシリーズ『バークにまかせろ』のバーク役で知られる。また、バリーとアン・ロビンソンはDVDのオーディオコメンタリーに声を吹き込み、
2005年にスティーヴン・スピルバーグがリメイクした『宇宙戦争』にもカメオ出演している。
本作はアカデミー特殊効果賞を受賞し、同編集賞と音響賞にノミネートされた他、ヒューゴー賞映像部門も受賞した。
 
   「君の名は」
(1953年9月15日・松竹・モノクロ・127分)

監督-大庭秀雄/脚本-柳井隆雄
音楽-古関裕而、主演-岸恵子・佐田啓二
特殊撮影-川上景司・円谷英二
解説 「太平洋の鷲」★★★
(1953年10月21日・東宝・モノクロ・122分)

監督-本多猪四郎/脚本-橋本忍/主演-大河内傳次郎・三船敏郎

特殊技術-円谷英二・渡辺明・向山宏
1954年
(昭和29年)
53歳

田中友幸プロデューサーによって、『G作品』(ゴジラ)の企画が起こされ、これは日本初の本格的特撮怪獣映画『ゴジラ』となった。円谷は新たに特撮班を編成してこれに当たる。この『ゴジラ』から、飯塚定雄、井上泰幸、入江義夫、開米栄三らが特技課に加入。

11月3日、満を持して製作された『ゴジラ』が公開され、空前の大ヒット。日劇ではつめかけた観客の列が何重にも取り囲み、田中友幸がチケットもぎを手伝うほどだった。円谷英二の名は再び脚光を浴び、同作は邦画初の全米公開作となり、その名は海外にも轟いた。当作で円谷は「日本映画技術賞」を受賞する。

解説 「さらばラバウル」★★
(1954年2月10日・東宝・モノクロ・109分)

監督:本多猪四郎 脚本:村田武雄/本多猪四郎/原作:香山滋/主演:池部良・岡田茉莉子
特殊技術:円谷英二
  1954年7月2日『大アマゾンの半魚人』』(Creature from the Black Lagoon)日本公開
監督ジャック・アーノルド、脚本ハリー・エセックス他、主演リチャード・カールソン、ジュリー・アダムス

本作品に登場するモンスター・ギルマン(「鰓のある人間」の意)は、怪物映画の老舗であるユニヴァーサル映画がドラキュラ、
狼男、フランケンシュタインの怪物に続くオリジナル・モンスターとして考案したモンスターである。
アナグリフ方式による3D映画として公開されたが、日本では普通版が上映された。
「古代生物と現代文明の接触によって起きる悲劇」、「人間の女性に恋をした半魚人の悲恋」の2点で、過去に制作された『キングコング』との類似性が指摘されている。当時制作された3D映画群の中では最も興行的に成功した作品。

水中シーンを除いて、作品の撮影はフロリダ州のワクラスプリングス州立公園内の湧水地で行われた。
半魚人のスーツアクターは主にベン・チャップマンが務め、水中シーンでの操演は後に『007 サンダーボール作戦』で
水中シーンの監督を手がけるリコウ・ブラウニングが務めた。メイクアップとしてクレジットされているのは
ユニヴァーサル映画のメイクアップチーフであるバド・ウエストモアのみだが、実際にはジャック・キーヴァンが大半の作業を担当していた。
キーヴァンのデザインによる半魚人のデザインは人気を博し、続編として『半魚人の逆襲』『The Creature Walks Among Us』が制作された。物語は後に制作されるモンスター映画の原型の一つとなり、『モンスター・パニック』『怪人スワンプ・シング 影のヒーロー』などの亜流作品を生み出した。

余談としてビリー・ワイルダー監督『七年目の浮気』(1955年)でマリリン・モンローのスカートが地下鉄の風でめくれ上がる有名なシーンがあるが、これは本作を観た後の映画館前でトム・イーウェル演ずる主人公とモンローが起こるという設定である。
解説 「ゴジラ」★★★★★
(1954年11月3日・東宝・モノクロ・100分)

監督:本多猪四郎/脚本:村田武雄/本多猪四郎/主演:宝田明・川内桃子
特殊技術:円谷英二
解説   「透明人間」★★
(1954年12月29日・東宝・モノクロ・70分)

監督:小田基義/脚本:日高繁明/主演:河津清三郎・三條美紀
撮影・特技指導:円谷英二
  1954年12月22日『原子怪獣現わる』』(The Beast from 20,000 Fathoms)日本公開
監督ユージン・ルーリー、脚本ルー・モーハイム他、主演ポール・クリスチャン、ポーラ・レイモンド

核実験で現代に蘇った恐竜と人間との攻防を描き、映画史上初めて核実験の影響を受けた怪獣が登場した作品。
『Monster from Beneath the Sea』のタイトルでも知られる。「核実験で蘇った巨大な怪獣が都市を襲撃する」
という本作の設定や特撮技術は、『ゴジラ』(1954年)など後世の作品にも大きな影響を与えた。

原作は1951年にレイ・ブラッドベリが執筆した短編小説『霧笛』(The Fog Horn)。特撮部分をレイ・ハリーハウゼンが担当している。制作陣は著名だったブラッドベリ作品の映画化を企画し、早期に映画化の権利を取得した。映画の宣伝にはブラッドベリの名前が広く使われ、「サタデー・イブニング・ポスト掲載のレイ・ブラッドベリ作品」とクレジットされている。

プロデューサーのジャック・ディーツとハル・チェスターは、『キングコング』のヒットに影響を受け、そこから「核兵器の影響で突然変異を起こした巨大生物」という構想を膨らませていった。
本作のヒットにより『ゴジラ』『放射能X』『海獣ビヒモス』『怪獣ゴルゴ』など「放射能の影響を受けた巨大生物」が登場する怪獣映画が数多く制作された。また、2008年公開の『クローバーフィールド/HAKAISHA』には本作の映像が使用されている。

映画題名では「野獣(The Beast)」、劇中ではエルソン教授以外は「恐竜」「怪獣」と呼んでいた。後年の『恐竜の惑星』(1978年)にはリドサウルス風の恐竜が登場する。原作ではブロントサウルスをイメージしていたが、本作ではティラノサウルスをイメージしたデザインとなっている。初期デザインでは殻の頭をしていたり、くちばしのある恐竜として設定されていた。このデザインはサタデー・イブニング・ポストに掲載された。
一時期は怪獣が「放射能性の炎」を吐くことが検討されたものの予算の関係で却下されたが、サタデー・イブニング・ポストにはそのままデザインが掲載された。
この能力が、後のゴジラの放射火炎/放射熱線に影響を与えたのではないかとする説もある。

1955年
(昭和30年)
54歳
『ゴジラの逆襲』で、晴れて世界に例を見ない「特技監督」の名称を与えられる。

その後、『獣人雪男』『地球防衛軍』『大怪獣バラン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『キングコング対ゴジラ』などの怪獣・SF映画のすべてにおいて特撮技術を監督。これらは東宝のドル箱シリーズとなり、『宇宙大戦争』以後は円谷の特撮作品というだけで、製作中から海外の映画会社が契約を結びに来日したほどである。
解説 「ゴジラの逆襲」★★★
(1955年4月24日・東宝・モノクロ・85分)
監督:小田基博/脚本:村田武雄/日高繁明/主演:小泉博・若山セツ子・千秋実
特技監督:円谷英二
「獣人雪男」
(1955年8月14日・東宝・モノクロ・95分)
監督:本多猪四郎/脚本:村田武雄/原作:香山滋/主演:宝田明・河内桃子・根岸明美
特技監督:円谷英二
   1955年12月23日海底二万哩(20000 Leagues Under the Sea)日本公開
監督リチャード・フライシャー、脚本アール・フェルトン、原作ジュール・ヴェルヌ、製作ウォルト・ディズニー、主演カーク・ダグラス、ジェームス・メイサン

フランスの小説家ジュール・ヴェルヌの古典SFの名作『海底二万里』の映像化としては、1916年のユニバーサル・ピクチャーズの『海底六万哩』などがあったが、本作は初のスコープ・サイズ、カラー作品で、当時はアニメーション製作を主体としていたウォルト・ディズニーが、実写版として製作した映画である。

監督のリチャード・フライシャーはディズニーの競争相手だったアニメ作家マックス・フライシャーの息子である。リチャード・フライシャー自身はドキュメンタリー・フィルムを中心に活動してきた人物で、1947年に "Design for Death" でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞していた。本作の後、ミクロ化した潜水艇が人体内部を航行するSF映画『ミクロの決死圏』や、大作『トラ・トラ・トラ!』などを手がけている。
撮影のフランツ・プラナーは『ローマの休日』の撮影監督で、同作を含め6回アカデミー撮影賞にノミネートされることになる人物であった。また、音楽のポール・J・スミスは『ピノキオ』などの音楽を手がけ、同作でアカデミー作曲賞を受賞している。

特撮は、特殊効果を『シンデレラ』などに参加した、ジョン・ヘンチとジョシュア・ミードーが担当。視覚効果を、『メリー・ポピンズ』でアカデミー視覚効果賞を受賞するピーター・エレンショー、『ロスト・ワールド』にも参加しアカデミー賞の技術効果賞などに3度ノミネートされたラルフ・ハメラスらが担当した。
劇中に登場するノーチラス号のデザインは、ハーパー・ゴフによるもので、ディズニーランド・パリにあるディスカバリーランドのアトラクション、ノーチラス号のミステリーや、東京ディズニーシーのミステリアスアイランドに停泊しているノーチラス号は、その再現である。
撮影は1954年の春に開始され、バハマとジャマイカのネグリルで行われた。いくつかのロケ地は撮影が困難で、400人の技術スタッフが必要とされた。また、巨大イカのシーンは当初夕暮れ時の穏やかな海で撮影されたため、嵐の海でのシーンは新たに撮影し直され、巨大イカを操作するケーブルなどを隠すためにドラマ部分が追加された。
   1955年12月26日宇宙水爆線(This Island Earth)日本公開
監督ジョセフ・ニューマン、脚本フランクリン・コーエン、エドワード・G・オキャハラン、出演フェイク・ドマーグ、レックス・リーズン

レイモンド・F・ジョーンズの科学小説を原作にした50年代を代表するSF映画。
エクセターと名乗る謎の人物の研究所を訪れたカル博士は、そこで各国から集められた科学者と出会う。しかし、エクセターは原子力を手に入れるために派遣された宇宙人で…。
1950年代のモンスター代表ともいえるメタルーナ・ミュータントが強烈なインパクトを与える、SF映画史上に残る名作。
 
1956年
(昭和31年)
55歳

日本初の総天然色特撮作品『白夫人の妖恋』を担当。
続いてこれも怪獣映画では日本初の総天然色作品『空の大怪獣ラドン』を担当する。円谷はチーフキャメラマン有川貞昌の意見もあり、これらの作品にイーストマン・カラーのフィルムを使用。以降これが定番フィルムとなる。

また、東宝内とは別に、自宅敷地の「円谷特殊技術研究所」を再開。東宝でまかないきれない合成処理や、人形アニメ撮影などをこちらで行う。研究員のギャラは円谷の個人負担である。

解説  「宇宙人東京に現る」★★★
(1956年1月29日・大映・総天然色・82分)

監督:島耕二/脚本:小国英雄/色彩指導:岡本太郎/主演:南部彰三・目黒幸子
特撮-的場徹・築地米三郎・田中捨一
解説 「白夫人の妖恋」★★
(1956年6月22日・東宝・総天然色・103分)

監督:豊田四郎/脚本:八住利雄/主演:池部良・山口淑子・八千草薫
特技監督:円谷英二
    「空飛ぶ円盤恐怖の襲撃」
(1956年11月7日・国光映画:新東宝配給)

監督:関沢新一/脚本:関沢新一/主演:高島忠夫
特撮:新東宝特殊技術部、上村貞夫・西谷重次
解説 「空の大怪獣ラドン」★★★
(1956年12月26日・東宝・総天然色・82分)
監督:本多猪四郎 脚本:村田武雄/馬渕薫/主演:佐原健二・白川由美・平田昭彦
特技監督:円谷英二
  1956年9月25日『禁断の惑星』(Forbidden Planet)日本公開
監督フレッド・マクラウド・ウィルコツクス、脚本シリル・ヒューム、主演ウォルター・ビジョン

SFが「荒唐無稽」とされ、パルプ・マガジンなどにおける舞台程度の認識だった時代に、SF映画の枠組みを持ちながら「潜在意識と自我の関係」という心理学的なテーマを扱った異色の作品。
SFとしての状況設定を持ち込むことで、潜在意識のヴィジュアル化に挑戦している。
製作当時は「わかりにくい作品」とする評価もあったようだが、現在ではその先見性を認められている。
思索的世界を扱うフィールドとしてSFを使ったという点で、SFのその後の発展につながった金字塔的作品とも評価される。

登場するロボット「ロビー・ザ・ロボット」は、SFに登場するロボットのひとつのモデルを確立した。
「宇宙家族ロビンソン」のフライデーや「スター・ウォーズ・シリーズ」のR2-D2は、ロビーの直系の子孫であると言ってもよい(ロビーとフライデーのデザインはどちらもロバート・キノシタ(Robert Kinoshita)が担当したものである)。
ロビーはその後『続・禁断の惑星 宇宙への冒険』、『トワイライト・ゾーン』『アダムスのお化け一家』など多数の作品にゲスト出演した。
多くの玩具が発売されており、また「主役の補佐をするマスコット的なロボットの存在」という設定において日本のアニメ・特撮にも大きな影響を与えたとされる。

「ロビー」の描写は、1950年に発表されたアシモフの『われはロボット』に登場するロボット工学三原則の影響を受けており、これは“「怪物を止めよ」というモービアス博士の命令を受けたロビーが放電しながら機能停止してしまう”というシークエンスにて表現されている。イドの怪物はモービアスの潜在意識を具現化したものであったため、「怪物を止める」にはモービアス博士を殺すしか方法がなかったからである。

1957年
(昭和32年)
56歳

東宝は特撮部門の強化を目論み、製作部に円谷陣頭の特殊技術課を組み入れ再編成する。『地球防衛軍』で「日本映画技術賞」を受賞。

  1957年7月13日『フランケンシュタインの逆襲』(The Curse of Frankenstein)日本公開
監督テレンス・フィッシャー、脚本ジミー・サングスター、主演ピター・カッシング、クリストファー・リー

メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を原作とし、1957年に製作されたイギリス・アメリカ合作のホラー映画。
第二次世界大戦前に大きなブームがあったが、戦後停滞傾向にあった古典的なホラー映画の分野を本作のヒットにより復興させた金字塔的作品である。

イギリスの映画製作会社ハマー・フィルム・プロダクションは1955年、SFホラー映画『原子人間』を世界的にヒットさせた。次にハマーは配給会社からの要請で、1931年にアメリカのユニバーサル映画が制作して大ヒットした古典派ホラー映画の名作『フランケンシュタイン』のカラーフィルムによるリメイク的作品として本作を企画する。
ハマーは主役のフランケンシュタイン男爵に、当時英国テレビドラマ界のスターであったピーター・カッシングを招聘、怪物役にはまだ無名に近かったクリストファー・リーを配した。監督には幾つかのハマー作品を手がけてきたテレンス・フィッシャーが起用された。

リーが演じた怪物(本作では「モンスター」ではなく「クリーチャー」と表記される)はユニバーサル版とはイメージの異なる、死体を継ぎはぎしたようなグロテスクなデザインとなっている。これはユニバーサル版フランケンシュタイン・モンスターのデザインが著作権の問題で使用できなかったためとされる。しかし、監督のフィッシャーは新しいイメージの怪物を創造しようしていたので、敢えてユニバーサル版の踏襲に拘らなかったとも述べている。

閉鎖的な空間で生命の実験に万進するマッドサイエンティストとしてのフランケンシュタイン男爵の狂気と、それにより巻き起こされる恐怖の数々、その男爵の意外な形での破滅を中心に描いた本作は世界的なヒットを記録した。
これに続いて制作された『吸血鬼ドラキュラ』の更なるヒットにより、ハマーは以後20年近くにわたりホラーメーカーのトップとして君臨する事となる。そしてまたカッシングとリーも怪奇映画の国際的スターとなった。翌年には早くも続編『フランケンシュタインの復讐』が企画され、それ以後も同じ趣向でシリーズ化された。
本作の世界的ヒットにより古典派ホラー映画は再び脚光を浴びた。ハマーは1970年代初頭まで7本のフランケンシュタイン作品、9本のドラキュラ作品を始め、多くのホラー映画を製作した。
 解説  「透明人間と蠅男」★★
(1957年8月25日・大映東京・モノクロ・97分)
監督:村上三男/脚本:高岩肇/主演:北原義郎・叶順子
特殊技術:的場徹
 解説  「地球防衛軍」★★★★
(1957年12月28日・東宝・総天然色・88分)
監督:本多猪四郎/脚本:木村武/原案:丘美丈二郎/主演:佐原健二・白川由美・土屋嘉男
特技監督:円谷英二
1958年
(昭和33年)
57歳 
日米合作企画『大怪獣バラン』を担当。この『バラン』から、特殊美術課スタッフとして村瀬継蔵が円谷組に正式参加する。
  1958年12月29日『シンドバッド七回目の航海』(The 7th Voyage of Sinbad)日本公開
監督ネスサン・ジュラン、脚本ケネス・コルブ、主演カーヴィン・マニューズ

1958年のアメリカ合衆国の冒険ファンタジー映画。シンドバッド三部作の最初の作品で、主役の伝説の船乗りシンバッド(シンドバッド)をカーウィン・マシューズが演じている。製作は、特撮の名匠レイ・ハリーハウゼン。

 解説    「美女と液体人間」★★★
(1958年6月24日・東宝・総天然色・87分)
監督:本多猪四郎/脚本:木村武/原作:海上日出男/主演:白川由美・佐原健二
特技監督:円谷英二
  「日蓮と蒙古大襲来」
(1958年10月1日・大映京都・総天然色・138分)
監督:渡辺邦男 脚本:渡辺邦男/八尋不二/主演:長谷川一夫
特殊撮影:今井ひろし・築地米三郎
解説    「大怪獣バラン」★★★
(1958年10月14日・東宝・モノクロ・82分)
監督:本多猪四郎/脚本:関沢新一/原作:黒沼健/主演:野村浩三・園田あゆみ
特技監督:圓谷英二
  1959年
(昭和34年)
58歳
6200万円(当時)の予算を投じた国産初のカラー・シネスコ用合成機「トーホー・バーサタイル・プロセス」を完成させ、『日本誕生』で日本初使用。「日本映画技術賞」を受賞し、映画の日に特別功労表彰される。

この年、自宅敷地内の「円谷特殊技術研究所」に佐川和夫、中野稔が研究所生として参加。二人はこののち東宝特技課に入社、「日本誕生」の現場に加わっている。佐川によれば、この時期金城哲夫も研究所にいたという。
    「孫悟空」
(1959年4月19日・東宝・総天然色・104分)
監督:山本嘉次郎/脚本:村田武雄・山本嘉次郎/主演:三木のり平・市川福太郎・団令子
特技技術:円谷英二
 解説   「潜水艦イ-57降伏せず」★★
(1959年7月5日・東宝・総天然色・104分)
監督:松林宗恵/脚本:須崎勝彌・木村武/主演:池部良・三橋達也
特技技術:円谷英二
 解説    「日本誕生」★★
(1959年10月25日・東宝・総天然色・182分)
監督:稲垣浩/脚本:八住利雄/菊島隆三/主演:三船敏郎・司葉子
特技監督:円谷英二
 解説  「宇宙大戦争」★★
(1959年12月26日・東宝・総天然色・91分)

監督:本多猪四郎/脚本:関沢新一/主演:池部良・安西郷子・千田是也
特技監督:円谷英二

1960-1970年代

<参考> Wikipedia



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