★ | 駄作 | 途中でやめたくなる |
★★ | 凡作 | 興味あれば |
★★★ | 普通 | それなりの出来 |
★★★★ | 佳作 | かなり面白い |
★★★★★ | 傑作 | 超オススメ |
1901年 (明治34年) 0歳 |
1901年(明治34年)、 本名・円谷英一(つむらや えいいち)として、福島県須賀川市で誕生する。生家は糀業を営む商家だった。 3歳。母セイが次男出産後病死(享年19)。婿養子だった父の白石勇は離縁され、英一は祖母ナツに育てられる。ナツの家系には、日本に銅版や洋画を持ち込んだ亜欧堂田善がいた。また、5歳年上の叔父一郎が、兄のように英一を助け、可愛がってくれた。 1908年(明治41年)、7歳。 須賀川町立尋常高等小学校尋常科に入学し、成績は優秀だった。自宅敷地内の蔵の二階を私室としてあてがわれ、水彩画に没頭する。絵の腕は大人も驚く出来だった。あまり外交的な子供ではなかったという。 1910年(明治43年)、9歳。 東京の代々木錬兵場で徳川好敏、日野熊蔵両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功、これに強く感銘を受けた円谷は飛行機乗りに憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭する。6年生になると、金属製の飛行機の発動機を製作するほどの飛行機少年だった。 |
1905年8月・『『月世界旅行』日本公開 1902年にフランスのジョルジュ・メリエスが脚本・監督した、モノクロ・サイレント映画。1秒16フレームで、14分の作品。 原作はジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』だが、この作品を大幅に簡略化し、変更を加えたものである。後半の月人のエピソードはH・G・ウェルズの『月世界最初の人間』(1901年)が基になっている。 本作は30のシーンで構成されており、当時の映画としては珍しい複数のシーンで撮られている。また様々なトリック撮影の技法が使われており、なおかつ物語があるという、非常に画期的な作品である。世界初のSF映画とされており、映画史を語る上で必ず登場する重要な作品の一つである。 日本でも1905年8月に、明治座で公開され、のちに『月世界探検』の邦題で再公開された。 2000年、米『ヴィレッジ・ヴォイス』紙発表の「20世紀の映画リスト」で第84位にランクインされた。 本作品は著作権が切れパブリックドメインとなっているため、インターネット上で動画を視聴することができる。 |
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1911年 (明治44年) 10歳-11歳 |
1911年(明治44年)、10歳。 |
1912年 (大正元年) 13歳-15歳 |
1914年(大正3年)、13歳。 |
1917年 (大正6年) 16歳 |
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1919年 (大正8年) 18歳- |
1919年(対象8年)、18歳。 |
1920年 (大正9年) 19歳 |
1920年(大正9年)、19歳。 会社合併に伴い、国活巣鴨撮影所に入社。神田電機学校を卒業する。 国活ではカメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て見事やり遂げ、一気にカメラマンに抜擢される。 1921年(大正10)、20歳で兵役に就き、会津若松歩兵連隊で通信班所属となる。 |
1923年 (大正12年) 22歳 |
1923年(大正12年)、22歳。 |
1924年 (大正13年) 23歳 |
震災後、各映画撮影所が京都へ移ったため、円谷もこれを頼って京都に居を移し、小笠原明峰の小笠原プロダクションに所属する。 |
19245年 (大正14年) 24歳 |
1925年8月5日『ロスト・ワールド』日本公開 監督:ハリー・O・ホイト、原作:アーサー・コナン・ドイル、特殊効果・技術監督:ウィリス・オブライエン 人形アニメによるリアルな恐竜の表現が大評判となった無声映画。ストップモーションや特殊メイクを積極的に使用、当時としては非常にリアルな「異世界とそこに生きる生物達」を描き、大ヒットを記録。 本作品の成功が、同様に特撮映画の古典である『キングコング』へ、ひいては特撮映画(モンスター映画)というジャンルの定着へと繋がっている。SFXはウィリス・H・オブライエンが担当、7年がかりで撮影している。 なお、1960年には、本作のリメイク映画『失われた世界』が公開され、ウィリス・H・オブライエンの名もクレジットされている。 |
1926年 (大正15年) 25歳 |
衣笠貞之助、杉山公平らの衣笠映画聯盟設立(松竹傘下)とともに、連盟に所属。『狂った一頁』の撮影助手を担当した。なかなか本心を明かさず、酒が入ると「テヘラテヘラと笑う」円谷に、衣笠は「テヘラ亭」とあだ名を付けた。一方、キャメラマンたちからは先進的な撮影手法が反発を買い、「ズボラヤ」と呼ばれる |
1927年 (昭和2年) 26歳 |
1927年(昭和2年)、26歳。 林長二郎(長谷川一夫)初主演作である『稚児の剣法』(監督:犬塚稔)でカメラマンを担当、林を何重にもオーバーラップさせる特撮手法を採り入れ、映画は大成功となった。 |
1928年 (昭和3年) 27歳 |
正式に松竹京都下加茂撮影所に入社。 『怪盗沙弥磨』が入社第一作となる。『十字路』(衣笠貞之助監督)を、杉山公平とともに撮影。 |
1930年 (昭和5年) 29歳。 |
自費を投入して、移動撮影車や木製のクレーンを制作する。このクレーンで俯瞰撮影中に転落事故を起こし、その看病をしてくれた縁で知り合った荒木マサノ(当時19歳)と結婚、「円谷英二」と名乗るようになる。兄のように尊敬する5歳年上のおじの名が「一郎」だったので、遠慮して「英二」を名乗るようにしたという。結婚後、下加茂撮影所裏の一軒家に居を構える。 |
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1931年 (昭和6年) 30歳 |
渡欧していた衣笠監督の帰国後一作目となる『黎明以前』を、杉山公平とともに撮影。 ホリゾントを考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行う。長男一が誕生。 |
1933年 (昭和8年) 32歳 |
日活入社初作品として、大河内傳次郎の『長脇差風景』を撮影。 |
1933年3月2日『キングコング』日本公開 監督 メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シェードザック、製作総指揮デビッド・O・セルズニック、出演フェイ・レイ、ブルース・キャボット 世界初のトーキーによる怪獣映画。恐竜などが生息する南洋の髑髏島から見世物にされるためにニューヨークへ連れて来られた巨猿キングコンクの物語。 特撮面ではコングが人形アニメ(ストップモーション・アニメ)で表現されたことが大きな特徴で、『ロスト・ワールド』(1925年)に続いてウィリス・オブライエンが手腕をふるう卓越した特撮映像は多くの映画人に影響を与え、レイ・ハリーハウゼンが本作の影響から映画制作を志し、また円谷英二が特撮監督の道を志すきっかけとなった作品でもある。 淀川長治によると、公開当時、RKOにはこの映画を観た観客達から「本当にあんな生物がいるのか」との問い合わせの電話が殺到したという。 |
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1934年 (昭和9年) 33歳。 |
『浅太郎赤城颪』でスタアだった市川百々之助の顔に「ローキー照明(キーライト)」で影を作り、松竹時代も物議をかもしたその撮影手法を巡って日活の幹部と対立、同社を退社する。円谷はこの「ローキー照明」を好んだために、日活ではバスター・キートンに引っ掛けて「ロー・キートン」と呼ばれていた。 同年、円谷の特殊技術に注目した大沢善夫の誘いにより、撮影技術研究所主任として、東宝の前身であるJOトーキーに移る。 12月、『百万人の合唱』で、大沢善夫から資金を受け、自ら設計した鉄製クレーンを完成し、撮影に使用する。 |
1934年9月14日公開『大佛廻國・中京篇』」 監督枝正義郎・出演石川秀道 枝正義郎監督が東亜キネマから独立して制作された作品。 「大仏が動き出し、名古屋を巡り歩く」という題材を大規模なトリック撮影で描いた映画作品で、 日本映画では初めて「着ぐるみとミニチュアで巨大なキャラクターを表現した作品」とされる。 内容については「幼稚」「日本映画の異色篇」など様々だが、映像技術については一定の評価がされている。また、映画の舞台となった名古屋市では映画館が満席になるなど好評だった。 |
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1935年 |
2月から8月にかけ連合艦隊の練習鑑「浅間」に乗艦。 |
1936年 (昭和11年) 35歳 |
ナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの指示で製作された日独合作映画『新しき土』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用し、この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られるアーノルド・ファンク監督を唸らせた。
このスクリーン・プロセス装置は、円谷が京都時代から私費を投じて開発し続け、JOに移って大沢善夫の援助でついに完成させたものだった。ファンク監督は「これほどの装置はドイツにもない」と感嘆し、円谷に「ドイツに持って帰りたいから、ぜひ譲ってくれ」と頼み込んだほどだった。 また同時に、『日本スキー発達史』(澤蘭子主演)をファンクのスタッフとともに撮影。日本初の合作映画となるはずであったが、未編集のままお蔵入りする。 同年、人気芸者・市丸の主演2作目(薄田研二共演)となる『小唄磯 鳥追いお市』で、監督、撮影、編集すべてを手掛けた。 |
1938年 (昭和13年) 37歳 |
1937年(昭和12年)、36歳。 9月10日を以て、「株式會社冩眞化学研究所」、「PCL映画製作所」、「東宝映画配給」の3社と、円谷の所属する「JO」が合併し、「株式会社東宝」が設立される。 これに伴い、ハリウッド視察で特殊撮影の重要性を痛感していた常務取締役の森岩雄に招かれ、同年11月に砧の「東宝東京撮影所」に移る。ところが東京撮影所のカメラマン達から「ズボラヤをカメラマンと認めるわけにはいかない」と理不尽な反発を受け、円谷は撮影ができなかった。そこで森は円谷のために一計を案じ、11月27日付で特殊技術課を設立して、課長待遇で迎えることとした。しかし、これは直属の部下のいない孤立無援の出発であり、のちに円谷もこの状況を「部下なし課長」と自嘲気味に回想している。ここで円谷は研究予算を受け、自身の設計による国産初のオプチカル・プリンターの実験にかかる。 同年12月27日、マサノと二児とともに、東宝の用意した祖師谷の一戸建て住居に移る。 |
1939年 (昭和14年) 38歳 |
1939年(昭和14年)。38歳。 |
1940年 (昭和15年) 39歳 |
1940年(昭和15年)。39歳。 5月に『皇道日本』で撮影を担当。同じく5月の『海軍爆撃隊』では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影した。 この『海軍爆撃隊』は文化映画部部長松崎啓次が円谷のミニチュアテストフィルムの出来栄えを見て、「第一回航空映画」として企画したものである。「飛行機を吊り固定し、背景の岩山を回転させて岩肌を縫う飛行シーンを撮る」という、後年の『ハワイ・マレー沖海戦』の先駆けとなる円谷の特撮は、公開時大評判となった。 同年9月、『燃ゆる大空』で特撮を担当、『日本カメラマン協会特殊技術賞』を受賞する。 この夏頃から、円谷は特技課に川上景司、奥野文四郎、向山宏、天羽四郎、西浦貢、渡辺善夫、上村貞夫らを招き、人材の充実を図る。 |
解説 | 「海軍爆撃隊」 (1940年5月22日・東宝・モノクロ・97分) 監督:木村荘十二/脚本/主演 特殊撮影-円谷英二 |
解説 | 「燃ゆる大空」★★★ (1940年9月25日・東宝・モノクロ・105分) 監督:阿部豊/脚本/主演 特殊技術撮影-円谷英一 |
1941年 (昭和16年) 40歳 |
12月8日、太平洋戦争突入。これに伴い、東宝は本格的に軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画を制作することとなる。俄然特撮の需要が高まり、円谷率いる特技課は以後、特撮が重要な役目を果たすこれら戦争映画すべてを担当していく。 |
1942年 (昭和17年) 41歳 |
阿部豊監督作品『南海の花束』で本格的なミニチュアワークによる特撮シーンを演出。この作品では、監督の許可を得て、自ら絵コンテを構成しており、特に落雷を受けた海面が爆発する描写が圧巻であると評判をとる。 |
「南海の花束」 (1942年5月21日・東宝・モノクロ・106分) 監督-阿部豊/脚本-阿部豊・八木隆一郎 |
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解説 | 「翼の凱歌」★★ (1942年10月15日・東宝・モノクロ・109分) 監督-山本薩夫/脚本-外山凡平・黒澤明 特殊撮影-円谷英二 |
解説 | 「ハワイ・マレー沖海戦」★★★★ (1942年12月3日・東宝・モノクロ) 監督-山本嘉次郎/脚本-山本嘉次郎・山崎謙太 |
1943年 (昭和18年) 42歳 |
『ハワイ・マレー沖海戦』の成功を見て、松竹映画が円谷組から特撮スタッフの引き抜きを図り、特技課の川上景司、奥野文四郎を始め、10名ばかりが高給を条件に松竹へと移籍。 円谷率いる特技課は大打撃を被る。 |
1944年 (昭和19年) 43歳 |
『加藤隼戦闘隊』、『雷撃隊出動』、『あの旗を撃て』、『かくて神風は吹く』といった作品の全ての特撮を担当。三男粲誕生。戦火は激しくなる一方で、円谷は自宅の庭に防空壕を作った。 |
解説 | 「加藤隼戦闘隊」★★★ (1944年3月9日・東宝・モノクロ・109分) 監督-山本嘉次郎、脚本-山崎謙太・山本嘉次郎、主演-藤田進 特殊技術-円谷英二 |
解説 | 「雷撃隊出動」★★★★ (1944年12月7日・東宝・モノクロ・95分) 監督-山本嘉次郎、脚本-山本嘉次郎、主演-大河内傳次郎 特技撮影-円谷英二 |
1945年 (昭和20年) 44歳 |
『勝利の日まで』、『間諜海の薔薇』、『北の三人』の特撮を担当、また、大映京都で『生ける椅子』を担当する。 |
1946年 (昭和21年) 45歳 |
東宝がこの年製作した18本の映画のうち8本の特撮を担当。 |
1947年 (昭和22年) 46歳 |
撮影所は前年3月からこの年10月まで東宝争議に突入。労組はバリケードを組み、円谷が戦時中に使用した、零戦のエンジンを搭載した特撮用の大扇風機が警官隊撃退用に引っ張り出される始末であった。この大争議で東宝は映画製作どころではなくなり、円谷も『東宝千一夜』と『九十九人目の花嫁』の二本の特撮を担当したのみだった。
この中、1月に東宝は「部課制」を廃止して「職区制」を採り、特技課は「十三職区」に分けられる。円谷はこの「職区長」として「南旺撮影所」の所長に任命される。しかし政治闘争の場と化していく撮影所内部に嫌気のさした円谷は、この役職を捨て、東宝を離れ独立する。 またこの年、同じく東宝争議に嫌気がさし、東宝を辞めた有川貞昌(当時22歳)は、戦時中に観て感激した『雷撃隊出動』を撮った円谷と一度話がしたいと自宅を訪ねた。 海軍航空隊の対潜哨戒機パイロットだった有川は飛行機の話で円谷と意気投合した。その際、円谷に「我々日本人はもう飛行機(戦闘機)には乗れない。しかし乗りたいと思う若い人は一杯いる筈だ、その夢を実現できるのは我々しかいない。映画ならまた飛行機を飛ばせられる。一緒に新しい飛行機映画をやらないか」と誘われた。同じ飛行機乗りとして、この言葉に感動した有川は「円谷特殊技術研究所」の研究員となり、のちに円谷組のキャメラマンに抜擢され、さらには東宝の2代目特技監督となる。 |
1948年 (昭和23年) 47歳 |
3月に連合国軍最高司令官総司令部の公職追放によって「戦時中に教材映画、戦意高揚映画に加担した」として、重役陣ともども東宝を追放された円谷は、正式に東宝を辞職。また、東宝も十三職区(特殊技術課)を解散する。失職した円谷は困窮の極みとなる。 |
1949年 (昭和24年) 48歳 |
京都に赴き、大映京都撮影所で『透明人間現わる』『幽霊列車』の特撮シーンを担当。 |
解説 | 「虹男」★★ (1949年7月18日・大映・パートカラー・81分) 監督-牛原虚彦、脚本-高岩肇、主演-小林桂樹 |
「透明人間現る」 (1949年9月25日・大映・モノクロ・87分) 監督-安達伸生、脚本-安達伸生、主演-喜多川千鶴・月形龍之介 |
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1950年 (昭和25年) 49歳 |
『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』の特撮を担当。円谷は東宝撮影所内に六畳ほどの広さの「円谷特殊技術研究所」を移設。主に合成処理を請け負う。この年、正式に東宝社員となった有川貞昌の他、円谷の誘いを受け、東横映画にいた富岡素敬が、撮影助手として研究所員となった。 富岡、有川を合わせ、4、5人の陣容だった。 円谷は昭和25年から29年までの東宝すべての本編・予告編のタイトルを撮影しており、東宝映画の「東宝マーク」を有川とともに作ったのもこの時期である。 この年の『佐々木小次郎』(稲垣浩監督)での特撮が東宝作品の復帰第一作となるが、この時点ではまだ嘱託扱いである。 |
1951年 (昭和26年) 50歳 |
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1952年 (昭和27年) 51歳 |
この年2月、日本独立後の公職追放解除を受ける。同じく公職追放を受けていた森岩雄が製作顧問として東宝に復帰したことで、再び円谷も本社に招かれ、『港へ来た男』の特殊技術を担当。これが、正式な作品契約としての東宝復帰作となる。 5月、企画部に「クジラの怪物が東京を襲う」という映画企画を持ち込む。 7月、東宝は体制を一新し、「製作本部」を設置。本部長には5月にアメリカ映画界視察を終え、帰国した森岩雄が就任。新しいシステムの導入として、田中友幸を含む、9人から成るプロデューサー陣を組み、制作体制を強化。 |
1952年3月21日『地球が静止する日』(The Day the Earth Stood Still)日本公開 監督ロバート・ワイズ、脚本エドムンド・H・ノース、原作ハリー・ベイツ「主人の告別」、主演マスケル・ケニー、パトリシア・ニール 1952年「ゴールデングローブ賞・ 国際賞」受賞 1950年代はSF映画ブームとなったが、「空想科学映画」は子供向けのお伽話であり、異星人は敵対するモンスターとして描かれ、スペクタクルが優先されるジャンルの映画と思われていた。その風潮の中で、ストーリーを重視して高い知性と友好的な異星人像を提示し、人類と異星人のファースト・コンタクトとそれに対する人類の動向をシミュレーション風に展開させた、本格SF映画の先駆的な作品。 製作にあたり、企画段階で、プロデューサーのジュリアンブロースタインは冷戦時代の国家対立を危惧し、なんらかの形で世界情勢を表す映画を作ろうと考えた。「主人への告別」のテーマである「人が見知らぬものにどのように反応するか」が気に入り「主人への告別」を原作として採用した。 |
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1952年4月10日『地球最後の日』(When Worlds Collide)日本公開 監督ルドルフ・マテ、脚本シドニー・ポーエム、製作ジョージ・パル、主演リチャード・デア、バーバラ・ラッシュ 本作は、ジョージ・パル製作の『月世界征服』『宇宙戦争』『宇宙征服』とともに宇宙映画四部作と呼ばれる映画の一編である。パルはさらに本作の続編の映画化も計画していたが、資金などの問題から実現しなかった。 1962年公開の東宝映画「妖星ゴラス」 は本作の影響が強く、エンディングはアンチ・テーゼというべき対照的な関係にある(本作の地球脱出ロケットの乗員は、白人種だけだった)。 |
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1952年5月1日『遊星よりの物体X』(The Thing from Another World)日本公開 監督クリスティアン・ナイビイ、脚本チャールズ・レデラー、製作ハワード・ホークス、主演マーガレット・シェリダン、ケネス・トビー ジョン・W・キャンベルによる1938年の短編SF小説『影が行く』の映画化。 監督名にはクレジットされていないが、演出の大部分は、制作者であるハワード・ホークスの手によることが定説となっている。また、一部をオーソン・ウェルズが手がけたという説もある。 脚本名にはクレジットはされていないが、ハワード・ホークスとベン・ヘクトも参加している。また、ハワード・ホークスの親友であった作家のウィリアム・フォークナーも一部参加したと言われている。 |
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「港に来た男」 (1952年11月27日・東宝・モノクロ・89分) 監督-本多猪四郎/脚本-成沢昌茂・本多猪四郎 音楽-斎藤一郎、主演-三船敏郎・久慈あさみ・小泉博 特殊技術-円谷英二 |
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1953年 (昭和28年) 52歳 |
東映で『ひめゆりの塔』、重宗プロ他で『雲ながるる果てに』を担当。 |
「アナタハン」 (1953年6月28日・東宝・モノクロ・92分) 監督-ジョセフ・フォン・スタンバーグ/脚本-ジョセフ・フォン・スタンバーグ、浅野辰雄 音楽-伊福部昭、主演-根岸明美・菅沼正・中山昭二 特殊効果-円谷英二・渡辺善夫 |
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1953年9月1日『宇宙戦争』』(The War of the Worlds)日本公開 監督バイロン・ハスキン、脚本バリー・リンドン、原作H・G・ウェルズ、製作ジョージ・パル、主演ジーン・ケリー、アン・ロビンソン H・G・ウェルズの古典SF小説『宇宙戦争』を、『月世界征服』や『地球最後の日』を製作したジョージ・パルが映画化した作品。 物語の大筋は原作を生かしつつ、時代設定と主たる舞台は19世紀末のイギリスから製作当時のアメリカ合衆国カリフォルニア州南部に移された。 特撮は『地球最後の日』を手がけ、アカデミー特殊効果賞を2度受賞しているゴードン・ジェニングスや、同じく特殊効果賞を。 2度受賞し、この後『宇宙征服』にも参加するスクリーン・プロセスの専門家ファーシオット・エドゥアートらが担当した。 本作はアカデミー特殊効果賞を受賞し、同編集賞と音響賞にノミネートされた他、ヒューゴー賞映像部門も受賞した。 |
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「君の名は」 (1953年9月15日・松竹・モノクロ・127分) 監督-大庭秀雄/脚本-柳井隆雄 音楽-古関裕而、主演-岸恵子・佐田啓二 特殊撮影-川上景司・円谷英二 |
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解説 | 「太平洋の鷲」★★★ (1953年10月21日・東宝・モノクロ・122分) 監督-本多猪四郎/脚本-橋本忍/主演-大河内傳次郎・三船敏郎 特殊技術-円谷英二・渡辺明・向山宏 |
1954年 (昭和29年) 53歳 |
田中友幸プロデューサーによって、『G作品』(ゴジラ)の企画が起こされ、これは日本初の本格的特撮怪獣映画『ゴジラ』となった。円谷は新たに特撮班を編成してこれに当たる。この『ゴジラ』から、飯塚定雄、井上泰幸、入江義夫、開米栄三らが特技課に加入。 |
解説 | 「さらばラバウル」★★ (1954年2月10日・東宝・モノクロ・109分) 監督:本多猪四郎 脚本:村田武雄/本多猪四郎/原作:香山滋/主演:池部良・岡田茉莉子 特殊技術:円谷英二 |
1954年7月2日『大アマゾンの半魚人』』(Creature from the Black Lagoon)日本公開 監督ジャック・アーノルド、脚本ハリー・エセックス他、主演リチャード・カールソン、ジュリー・アダムス 本作品に登場するモンスター・ギルマン(「鰓のある人間」の意)は、怪物映画の老舗であるユニヴァーサル映画がドラキュラ、 狼男、フランケンシュタインの怪物に続くオリジナル・モンスターとして考案したモンスターである。 アナグリフ方式による3D映画として公開されたが、日本では普通版が上映された。 「古代生物と現代文明の接触によって起きる悲劇」、「人間の女性に恋をした半魚人の悲恋」の2点で、過去に制作された『キングコング』との類似性が指摘されている。当時制作された3D映画群の中では最も興行的に成功した作品。 余談としてビリー・ワイルダー監督『七年目の浮気』(1955年)でマリリン・モンローのスカートが地下鉄の風でめくれ上がる有名なシーンがあるが、これは本作を観た後の映画館前でトム・イーウェル演ずる主人公とモンローが起こるという設定である。 |
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解説 | 「ゴジラ」★★★★★ (1954年11月3日・東宝・モノクロ・100分) 監督:本多猪四郎/脚本:村田武雄/本多猪四郎/主演:宝田明・川内桃子 特殊技術:円谷英二 |
解説 | 「透明人間」★★★ (1954年12月29日・東宝・モノクロ・70分) 監督:小田基義/脚本:日高繁明/主演:河津清三郎・三條美紀 撮影・特技指導:円谷英二 |
1954年12月22日『原子怪獣現わる』』(The Beast from 20,000 Fathoms)日本公開 監督ユージン・ルーリー、脚本ルー・モーハイム他、主演ポール・クリスチャン、ポーラ・レイモンド 核実験で現代に蘇った恐竜と人間との攻防を描き、映画史上初めて核実験の影響を受けた怪獣が登場した作品。 『Monster from Beneath the Sea』のタイトルでも知られる。「核実験で蘇った巨大な怪獣が都市を襲撃する」 という本作の設定や特撮技術は、『ゴジラ』(1954年)など後世の作品にも大きな影響を与えた。 プロデューサーのジャック・ディーツとハル・チェスターは、『キングコング』のヒットに影響を受け、そこから「核兵器の影響で突然変異を起こした巨大生物」という構想を膨らませていった。 本作のヒットにより『ゴジラ』『放射能X』『海獣ビヒモス』『怪獣ゴルゴ』など「放射能の影響を受けた巨大生物」が登場する怪獣映画が数多く制作された。また、2008年公開の『クローバーフィールド/HAKAISHA』には本作の映像が使用されている。 一時期は怪獣が「放射能性の炎」を吐くことが検討されたものの予算の関係で却下されたが、サタデー・イブニング・ポストにはそのままデザインが掲載された。 この能力が、後のゴジラの放射火炎/放射熱線に影響を与えたのではないかとする説もある。 |
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1955年 (昭和30年) 54歳 |
『ゴジラの逆襲』で、晴れて世界に例を見ない「特技監督」の名称を与えられる。 その後、『獣人雪男』『地球防衛軍』『大怪獣バラン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『キングコング対ゴジラ』などの怪獣・SF映画のすべてにおいて特撮技術を監督。これらは東宝のドル箱シリーズとなり、『宇宙大戦争』以後は円谷の特撮作品というだけで、製作中から海外の映画会社が契約を結びに来日したほどである。 |
解説 | 「ゴジラの逆襲」★★★ (1955年4月24日・東宝・モノクロ・85分) 監督:小田基博/脚本:村田武雄/日高繁明/主演:小泉博・若山セツ子・千秋実 特技監督:円谷英二 |
「獣人雪男」 (1955年8月14日・東宝・モノクロ・95分) 監督:本多猪四郎/脚本:村田武雄/原作:香山滋/主演:宝田明・河内桃子・根岸明美 特技監督:円谷英二 |
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1955年12月23日『海底二万哩』(20000 Leagues Under the Sea)日本公開 監督リチャード・フライシャー、脚本アール・フェルトン、原作ジュール・ヴェルヌ、製作ウォルト・ディズニー、主演カーク・ダグラス、ジェームス・メイサン フランスの小説家ジュール・ヴェルヌの古典SFの名作『海底二万里』の映像化としては、1916年のユニバーサル・ピクチャーズの『海底六万哩』などがあったが、本作は初のスコープ・サイズ、カラー作品で、当時はアニメーション製作を主体としていたウォルト・ディズニーが、実写版として製作した映画である。 監督のリチャード・フライシャーはディズニーの競争相手だったアニメ作家マックス・フライシャーの息子である。リチャード・フライシャー自身はドキュメンタリー・フィルムを中心に活動してきた人物で、1947年に "Design for Death" でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞していた。本作の後、ミクロ化した潜水艇が人体内部を航行するSF映画『ミクロの決死圏』や、大作『トラ・トラ・トラ!』などを手がけている。 撮影のフランツ・プラナーは『ローマの休日』の撮影監督で、同作を含め6回アカデミー撮影賞にノミネートされることになる人物であった。また、音楽のポール・J・スミスは『ピノキオ』などの音楽を手がけ、同作でアカデミー作曲賞を受賞している。 特撮は、特殊効果を『シンデレラ』などに参加した、ジョン・ヘンチとジョシュア・ミードーが担当。視覚効果を、『メリー・ポピンズ』でアカデミー視覚効果賞を受賞するピーター・エレンショー、『ロスト・ワールド』にも参加しアカデミー賞の技術効果賞などに3度ノミネートされたラルフ・ハメラスらが担当した。 |
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1955年12月26日『宇宙水爆線』(This Island Earth)日本公開 監督ジョセフ・ニューマン、脚本フランクリン・コーエン、エドワード・G・オキャハラン、出演フェイク・ドマーグ、レックス・リーズン レイモンド・F・ジョーンズの科学小説を原作にした50年代を代表するSF映画。 エクセターと名乗る謎の人物の研究所を訪れたカル博士は、そこで各国から集められた科学者と出会う。しかし、エクセターは原子力を手に入れるために派遣された宇宙人で…。 1950年代のモンスター代表ともいえるメタルーナ・ミュータントが強烈なインパクトを与える、SF映画史上に残る名作。 |
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1956年 (昭和31年) 55歳 |
日本初の総天然色特撮作品『白夫人の妖恋』を担当。 |
解説 | 「宇宙人東京に現る」★★★ (1956年1月29日・大映・総天然色・82分) 監督:島耕二/脚本:小国英雄/色彩指導:岡本太郎/主演:南部彰三・目黒幸子 特撮-的場徹・築地米三郎・田中捨一 |
解説 | 「白夫人の妖恋」★★ (1956年6月22日・東宝・総天然色・103分) 監督:豊田四郎/脚本:八住利雄/主演:池部良・山口淑子・八千草薫 特技監督:円谷英二 |
「空飛ぶ円盤恐怖の襲撃」 (1956年11月7日・国光映画:新東宝配給) 監督:関沢新一/脚本:関沢新一/主演:高島忠夫 特撮:新東宝特殊技術部、上村貞夫・西谷重次 |
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解説 | 「空の大怪獣ラドン」★★★★ (1956年12月26日・東宝・総天然色・82分) 監督:本多猪四郎 脚本:村田武雄/馬渕薫/主演:佐原健二・白川由美・平田昭彦 特技監督:円谷英二 |
1956年9月25日『禁断の惑星』(Forbidden Planet)日本公開 監督フレッド・マクラウド・ウィルコツクス、脚本シリル・ヒューム、主演ウォルター・ビジョン SFが「荒唐無稽」とされ、パルプ・マガジンなどにおける舞台程度の認識だった時代に、SF映画の枠組みを持ちながら「潜在意識と自我の関係」という心理学的なテーマを扱った異色の作品。 SFとしての状況設定を持ち込むことで、潜在意識のヴィジュアル化に挑戦している。製作当時は「わかりにくい作品」とする評価もあったようだが、現在ではその先見性を認められている。思索的世界を扱うフィールドとしてSFを使ったという点で、SFのその後の発展につながった金字塔的作品とも評価される。 登場するロボット「ロビー・ザ・ロボット」は、SFに登場するロボットのひとつのモデルを確立した。 「宇宙家族ロビンソン」のフライデーや「スター・ウォーズ・シリーズ」のR2-D2は、ロビーの直系の子孫であると言ってもよい(ロビーとフライデーのデザインはどちらもロバート・キノシタ(Robert Kinoshita)が担当したものである)。 ロビーはその後『続・禁断の惑星 宇宙への冒険』、『トワイライト・ゾーン』『アダムスのお化け一家』など多数の作品にゲスト出演した。 多くの玩具が発売されており、また「主役の補佐をするマスコット的なロボットの存在」という設定において日本のアニメ・特撮にも大きな影響を与えたとされる。 |
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1957年 (昭和32年) 56歳 |
東宝は特撮部門の強化を目論み、製作部に円谷陣頭の特殊技術課を組み入れ再編成する。『地球防衛軍』で「日本映画技術賞」を受賞。 |
1957年7月13日『フランケンシュタインの逆襲』(The Curse of Frankenstein)日本公開 監督テレンス・フィッシャー、脚本ジミー・サングスター、主演ピター・カッシング、クリストファー・リー メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を原作とし、1957年に製作されたイギリス・アメリカ合作のホラー映画。 第二次世界大戦前に大きなブームがあったが、戦後停滞傾向にあった古典的なホラー映画の分野を本作のヒットにより復興させた金字塔的作品である。 イギリスの映画製作会社ハマー・フィルム・プロダクションは1955年、SFホラー映画『原子人間』を世界的にヒットさせた。次にハマーは配給会社からの要請で、1931年にアメリカのユニバーサル映画が制作して大ヒットした古典派ホラー映画の名作『フランケンシュタイン』のカラーフィルムによるリメイク的作品として本作を企画する。 本作の世界的ヒットにより古典派ホラー映画は再び脚光を浴びた。ハマーは1970年代初頭まで7本のフランケンシュタイン作品、9本のドラキュラ作品を始め、多くのホラー映画を製作した。 |
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解説 | 「透明人間と蠅男」★★ (1957年8月25日・大映東京・モノクロ・97分) 監督:村上三男/脚本:高岩肇/主演:北原義郎・叶順子 特殊技術:的場徹 |
解説 | 「地球防衛軍」★★★★ (1957年12月28日・東宝・総天然色・88分) 監督:本多猪四郎/脚本:木村武/原案:丘美丈二郎/主演:佐原健二・白川由美・土屋嘉男 特技監督:円谷英二 |
1958年 (昭和33年) 57歳 |
日米合作企画『大怪獣バラン』を担当。この『バラン』から、特殊美術課スタッフとして村瀬継蔵が円谷組に正式参加する。 |
1958年12月29日『シンドバッド七回目の航海』(The 7th Voyage of Sinbad)日本公開 監督ネスサン・ジュラン、脚本ケネス・コルブ、主演カーヴィン・マニューズ 1958年のアメリカ合衆国の冒険ファンタジー映画。シンドバッド三部作の最初の作品で、主役の伝説の船乗りシンバッド(シンドバッド)をカーウィン・マシューズが演じている。製作は、特撮の名匠レイ・ハリーハウゼン。 |
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解説 | 「美女と液体人間」★★★ (1958年6月24日・東宝・総天然色・87分) 監督:本多猪四郎/脚本:木村武/原作:海上日出男/主演:白川由美・佐原健二 特技監督:円谷英二 |
解説 | 「日蓮と蒙古大襲来」★★ (1958年10月1日・大映京都・総天然色・138分) 監督:渡辺邦男 脚本:渡辺邦男/八尋不二/主演:長谷川一夫 特殊撮影:今井ひろし・築地米三郎 |
解説 | 「大怪獣バラン」★★★ (1958年10月14日・東宝・モノクロ・82分) 監督:本多猪四郎/脚本:関沢新一/原作:黒沼健/主演:野村浩三・園田あゆみ 特技監督:圓谷英二 |
1959年 (昭和34年) 58歳 |
6200万円(当時)の予算を投じた国産初のカラー・シネスコ用合成機「トーホー・バーサタイル・プロセス」を完成させ、『日本誕生』で日本初使用。「日本映画技術賞」を受賞し、映画の日に特別功労表彰される。 この年、自宅敷地内の「円谷特殊技術研究所」に佐川和夫、中野稔が研究所生として参加。二人はこののち東宝特技課に入社、「日本誕生」の現場に加わっている。佐川によれば、この時期金城哲夫も研究所にいたという。 |
「孫悟空」 (1959年4月19日・東宝・総天然色・104分) 監督:山本嘉次郎/脚本:村田武雄・山本嘉次郎/主演:三木のり平・市川福太郎・団令子 特技技術:円谷英二 |
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解説 | 「潜水艦イ-57降伏せず」★★★★ (1959年7月5日・東宝・総天然色・104分) 監督:松林宗恵/脚本:須崎勝彌・木村武/主演:池部良・三橋達也 特技技術:円谷英二 |
解説 | 「日本誕生」★★ (1959年10月25日・東宝・総天然色・182分) 監督:稲垣浩/脚本:八住利雄/菊島隆三/主演:三船敏郎・司葉子 特技監督:円谷英二 |
解説 | 「宇宙大戦争」★★★ (1959年12月26日・東宝・総天然色・91分) 監督:本多猪四郎/脚本:関沢新一/主演:池部良・安西郷子・千田是也 特技監督:円谷英二 |
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